カラヴァッジョさん、あなたの死の瞬間に起きた出来事を話して下さい。

「その二つの絵、つまりパウロやロレートの聖母の話を聞くと、カラヴァッジョさん、

あなたは聖書の場面からイメージの引き出し方が鮮やかですね。とくに幻視の

場面を偏愛してませんか」

 

「たまにはマシな事もしゃべるんだな。俺の若い頃からの愛読書を知ってるかな?

ダンテの《神曲》なんだ。永遠の恋人、ベアトリーチェを求めて地獄煉獄天国を彷

徨する一大ファンタジー宗教叙事詩だよ。俺のイメージの源泉なんだがね、美術

史家は気づかないのかね。自分の絵の能力は、絵画以前に文学で養われた。だ

から聖書の場面を剽窃して絵にするなんて朝飯前なんだよ」

 

「えっ、剽窃ですか?」

 

「まさか俺が神を120パーセント信じて、信仰の証に絵を描いてるとか思っちゃい

ないだろうな。そんなのはフラ・アンジェリコで終わってるんだ。ダ・ヴィンチもミケ

ランジェロ・ブオナローティも神をあがめてなどいない。神や聖書は作品の題材に

過ぎん、おのれの腕を見せつけるための。フㇷ、わかるかな?」

 

「なるほど・・・」

                            

「それはそうと、病室での最後の話を聞かれたたんだったな」

「はい、そこをぜひ」

「自分の絵を思い出しつつ悔悟の時を過ごす俺のもとに、司祭がやってきたんだ。

熱病にうなされ、寒さで震えている俺のところにな。この男はもう長くない、と誰か

が村の司祭を呼んでくれたんだろう。その姿を見て、ああ、いよいよ俺も一巻の

終わりだな、人はそうやって最期を迎えるんだな、そう思ったさ。司祭はまだ若か

った。無精ひげを生やして、髪は多少伸びてたかな。どういうわけか裸足なんだ。

ろうそくも香油も持っていない。そいつが音もなく俺のベッドの足元に立った」

「サンタ・クローチェ同信会の牧師による終末の儀式を受けたと、されてますが」

「フム、その時、俺の名を呼ばわる声がした。『ミケランジェロ!』とな。誰が発し

たのか?どこか体内の内奥か天の高みから聞こえて来たんだ。もう一度、ミケラ

ンジェロ、と声があった。そして声は『いとしわが子よ』、と私のことを呼びかけた。

次にこう言った。『その汚辱にまみれた怒りと恐れの服を脱ぎなさい』、と。続けて

『そなたの悲しみは、私が引き受けよう』と言った」

「・・・・」

「目の前の地元の僧侶の目を見たら、奴の目は何か秋の静かな入り江のように

澄んでるんだ。唇を動かして言葉を発しはしなかったが、その瞳の奥に、千億倍

の悲しみをたたえているように感じた。もう意識が波のように遠のいたり、引き戻

したりを繰り返し始めていた。その時だ、『汝のすべてが赦された』、との声を若い

司祭が発したように思った。と同時にふっとその姿が消えた」

「・・・・」

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「もう、教皇の恩赦など、どうでもよかった。ああ、なぜもっと早く気づかなかった

んだ!神はいつも自分と背中合わせにいてくださったのに。なぜ、もっと早く振り

返ることをしなかったんだ。うまい絵を描きたい、人を驚かせたい、そんなことに

ばっかり心を奪われて、肝心なことに気づいていなかったんだよ。俺は激しく後

悔した。み心に背いてきたことを詫びた。ただ許しを乞うた。と同時にせき止めら

れない感情がこみ上げて、あふれ出て来た。これ以上ないありがたさに身が震え、

俺は涙を流してベッドにいた。その時の俺は《法悦のマグダラのマリア》をこれま

でになくリアルに幻視していた。自身がすでにマリアだった。いちばん罪多き人生

を歩んだかもしれないマグラダのマリアの前に、イエスは復活の姿を真っ先に顕

された。それを恩寵と言わずして何と言おう。そしてイエスは今また自分にも、死

に行く最後の瞬間に、復活の希望を伝えにお姿を顕わされ・・」

                     

美術館の一室。ふと気づくと、先ほどまで水中にいるように音がなかった世界に、

観客のざわめきや靴音が戻ってきていました。ソファには僕のほかは誰もいませ

んでしたが、隣りの座面を手で触れると、そこだけ体温のぬくもりが残っていたの

でした(カラヴァッジョ、完)。

 

ニューズレター配信  岩佐倫太郎  美術評論家

■後記 

最後までお付き合いいだきありがとうございます。これまで美術展や絵の話をそれなりに書いてきましたが、

賢しげな知識や文体をこね回して、マンネリになっていないか。本当に読む人に伝わって役に立ってるのか。

そんな反省もあって、今回は150回を迎えたのを機会に、エンターテインメント形式で書いてみました。思

った以上に会話文は長くなってしまいますね。全5回、最長記録ですが、面白くストレス少なく読んでいた

だいたなら大変幸いです。

 

カラヴァッジョさん、あなたは死の最期の瞬間、何を考えたのか?

日伊国交流樹立150周年記念 カラヴァッジョ展】その④国立西洋美術館

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「カラヴァッジョさん、さっきの話に戻しますけど、あなたの劇的なまでの明暗法を

継いだのがベラスケス、そのベラスケスをマネが学んだ。なのであなたの最後の

弟子がマネ。そこまでは分かります。そのマネがルネサンスの息の根を止めた、

と言うのは?」

 

「ヌード画を思い出してもらいたい。近世の最初のヌードはボッティチェルリの《ヴィ

ーナスの誕生》だ。それ以来、裸婦像は西洋では神話の女神という約束事の下で

なら描いていいこととして、400年も続くんだ。そしてマネになって初めて、女神でも

ない普通の女性のヌードが登場した」

 

「《草上の昼食》とか、《オランピア》ですね。オランピアは娼婦ですね。女神の対極

かも知れない。それでみんな怒ったんでしたよね」

 

「自分たちが使っていた建前を暴かれたから恥辱を感じたんだな。人はそういう時

に怒るもんなんだ。ともかく、マネはルネサンス以来の、ヌードは女神に限るという

鉄則を毀した。マネが毀したのはもうひとつある。遠近法だ。ルネサンスが発明し

てその後、金科玉条のごと守られていた一点透視図法をやめてしまったんだ。それ

には日本の浮世絵の影響も大きいな」

                        

         

                         

 

「そうなんですね」

 

「どうでもいいけど、その相槌の打ち方はやめてくれんか」

 

「気に障ったらすみません。それであなたの最期について聞きたいんですが。ローマ

 

郊外の港町のポルト・エルコレで死にました」

 

「まとめに入ってるのか(笑)」

「カラヴァッジョさんは貧しい港町の病院で最期を迎えました。看取る家族も

なく、所持品もなく。それもまだ若い38歳でしたね。後悔はなかったですか」

「行き倒れになったところを病院に担ぎ込まれた。今も覚えているよ。小さい

粗末なベッドでな。シーツも擦り切れてた。教皇の恩赦を求めローマに行くつ

もりが荷物もなくして、恩赦を得るために肌身離さず持っていた贈り物にする

絵も失って、熱病にかかりベッドの上でブルブル震えていたんだ。後悔はなか

ったかって?大ありだよ。若い日に喧嘩で人を殺めた。そして逃亡者となって

官憲や仇の目を避けて住む流れ者の人生だった。そのくせ行く先々でトラブル

を起こした。いくら絵の腕があってほめそやされようと、一日たりと心の休ま

るときはなかった。それでも惧れと贖罪の意識で、逃亡先でも絵筆を動かした。

俺の人生、何だったんだと考えながらな」

「そして最後の最後は、我とわが運命を呪って、歯噛みして死んで行った訳ですね?」

「大いに違うな!」

「え?!」

「普通ならあんたの思う通りだろうよ。殺人者のお尋ね者の末路は、それくらいが丁度

だと、多くの人も考える。だがな、事実は全く違うんだ」

「じゃあ、どうだったんです?司祭を呼んで告解でもしたんですか。人殺しを悔いて」

「確かに臨終の枕辺には司祭も来た。しかし俺にはそんな儀式は無くてよかったんだ」

「それはまたなぜ?」

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《ロレートの聖母》 1604-06年頃 260×150cm サンタゴスティーノ教会 ローマ

※この画像は参考図像。作品は今回の「カラヴァッジョ展」に出品されていません。ご注意ください。

 

「ひとは死ぬ前に生涯の映像をすべて思い出すというがな、俺の場合は、自分の作品

一つ一つが浮かんで来たんだ。まず最初に浮かんできたのは《聖パウロの回心》だ。

知ってるな?キリストを弾圧する側のパウロが、イエスの幻声を聴き、その瞬間、回心

が起こって自分でも驚いて落馬した。背中を地面につけて、両手を挙げたあの絵だよ。

俺もまさにその心境だった。いまわのベッドの上で、赦しを求めて両手を差し出していた。

次に目の前に《ロレートの聖母》が浮かんだんだ。マリア様が頭の上には光輪を輝かし、

幼子イエスを抱いて門口に顕現された例の図柄だ。貧しい巡礼は足の裏を泥で汚し、

膝をついて杖にすがり、ありえない奇蹟のあまりのありがたさに手を合わせている・・。

自分で描いておきながら、この巡礼は自分のことだと初めて気づいたよ」(つづく)。

カラヴァッジョ展は東京・上野公園の国立西洋美術館612日(日)まで

ニューズレター配信   岩佐倫太郎  美術評論家

後記 今回で終わるつもりが、次回までに。あと1回、懲りずにお付き合いください。

 

 

カラヴァッジョさん、ミケランジェロについてはどう思っているんですか。

日伊国交流樹立150周年記念 カラヴァッジョ展】その③国立西洋美術館

 

 

「ところでカラヴァッジョさんにとって、ミケランジェロとは?」

「またしても出来合いの質問だな。アンチョコすぎないか、紋切りで」

「はい、すみません」

「俺と同名のミケランジェロのことだな?ピエタやダビデで有名な」

「そうです」

「俺はダヴィンチからは思想を盗み、ミケランジェロからは技法を盗んだんだ。奴

の本分は彫刻家だ。後年いかにシスティナ礼拝堂に絵を描こうともだ。

彫刻家と言うものは絵描きと違って、寸分の誤魔化しも効かない。なぜなら彫像

は前後左右上下、どこからも見られる。嘘がつけないんだ。嘘をついたら立体は

できない。わかるな」

「たしかに」

「奴の場合、だからその技量はハンパじゃない。いくら大理石を切り出す村に育

ったと言っても、奴っこさんの3次元の空間把握は絶対的なんだ。石の中にす

でに彫像が見えてる。これは習ってできるものでもない。言いたかないが、天才

と言うしかないものがある。何しろ自分が造物主に成り代わって天地創造してい

るつもりで居やがるんだ。鑿をふるってな」

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「たまには人をほめるんですね(笑)」

 

「フン!ところで、奴っこさんの新しさはどこにあったのか、分かるな?今じゃ皆、

当たり前のようにダビデやピエタを見てるがな。ここが大事なんだが、奴はギリ

シャの理想的な肢体美の上に聖書の顔を乗っけやがったんだ。露骨な表現で

悪いな。聖書をギリシャ美で再構成した。これがルネサンスなんだ。ギリシャ

キリスト教の融合。これは最強の組み合わせなんだ。それ以前はジョットがイコ

ンに物語と人間性を盛り込んで、聖像を動かす絵を描き始めたところだった。例

えば《ユダの接吻》などのように」

パドヴァのスクロベーニ礼拝堂の絵ですね」

「そう、彼の表現でも当時、十分に革新的だっただろうと思う。それがミケランジェ

ロは2千年も昔の、見事なギリシャ美の肉体と写実をもって聖人を復活させた。

「完璧とはああいうものですかね

「そうさな。奴がルネサンスの規範で奴がルネサンスを作ったんだ」

「では、カラヴァッジョさんはどこを学んで、どう乗り越えようと・・」

「まず学んだのは人体だ。ひねりや骨格のうまさはもう盗むしかない。今回の《ナ

ルキッソス》なんか、その成果だが、まあ、まだ追いつけてない。奴は人体解剖も

経験してスキがないんだ。正面突破は難しい野郎なんだ。憎たらしいがな」

 

「それで迂回して、極端な明暗法などを生み出したんですね?」

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「付け入る隙を探したね。奴はあまりに完成していて、全方位なんだ。他が

皆、マネしたくなるようなお手本なところを身に着けてる。でも、考えたね。奴も所

詮は教皇の看板屋じゃないのかってね。権力をヨイショしてるんだろう。そう考え

ると俺もちょっとは楽になってきた。まあ、時代があとだからそんなことも言えるん

だが、その弱点を俺は突いたのさ。マネキンのディスプレイでなく、瞬間の真実を

描けばいい、聖書の物語の解釈を新しくして、そこに焦点を当てたんだ。そこは絵

描きの特権なんだよ。彫刻家は全方位だから光の省略ができない。我々はある

角度から絞った瞬間が描ける。なおかつ、貧しい信者の立場を絵に反映できれば、

ちょっと勝負できるかもしれない。そう思ったな」

「《ロレートの聖母》もそうですね。」

「ウム、いい絵だろ」

「それでカラヴァッジョさんの明暗法は、ベラスケスやオランダのレンブラント、さら

にはフェルメールにも受け継がれる」

ルネサンスを毀して、新しい絵画の流れが始まったんだ。最後の弟子は、印象

派のマネだよ。俺が壊しにかかったルネサンスだが、なにしろシブといんだ。新

古典だなんだと看板を架け替えて生き延びてやがった。その息の根を止めたの

がマネなんだ」

「なるほど。そうなんですね。次回、カラヴァッジョさんの最期のことを聞いていい

ですか。あなたは若くしてローマの郊外で客死しましたよね」(つづく)。

 

ニューズレター配信

岩佐倫太郎  美術評論家

■お知らせ

僕が企画にかかわった大阪市立東洋陶磁美術館と(社)ナレッジキャピタルの「超学校」シリーズ。

今日5月7日(土)は現地で、ちょうど開催中の「宮川香山」を皆で解説付きの鑑賞会。そのあとは、510

ほか、グランフロントにふたたび戻って、学芸員の方の話を聞いたり、館長と僕の対談を行ったりします。

http://kc-i.jp/activity/chogakko/moco/vol01/

 

第2回 カラヴァッジョとの対話;あなたはルネサンスのどこを新しくしたのか?

■【日伊国交流樹立150周年記念 カラヴァッジョ展その②】国立西洋美術館

 

 

(前回より続く)僕の横に、男がドスンと座り、肩をぶつけて来た。失礼な奴だな!

そう思って横目でにらんだら、男は黒いあごひげをはやし、上半身の胸郭が厚い。

日本人じゃないな、そう思った瞬間、男が前を向いたままバリトンの声で威嚇する

ように話しかけてきた。

                      

「あんただな、俺と話をしたがってるのは?」

「え~っ、そういう、あ、あなたは、ひ、ひょっとしてカラヴァッジョ先生?!」

「阿呆う!その先生と呼ぶのはやめろ。殺人犯を先生と呼ぶやつがどこの国にいる

んだ。それに声がでかい。絵は静かに見ろと教えられてなかったのか」

「は、はい。すみません。では、あちらの世界から降りて来てくれたんですね。エマオ

の奇跡ですね」

「畏こまってる割にはギャグが好きな奴だな。早く質問をしてくれ。地上にいられる時

間は長くないんだ」

「ありがとうございます。先生、それでは・・」

「バカ!俺を先生と呼ぶなと言ったろう。今度、先生と言ったら罰金だぞ!」

「で、では、カラヴァッジョさん(汗)、ダ・ヴィンチをどう思いますか?」

「大雑把な質問だな、もうちょっと考えて質問できないのか(怒)。俺を怒らせると剣を

振り回し、見境なく相手に切りかかるのを知ってるだろうな?」

「ええ、それはもう、有名ですから、ひええ~!」

「ったく!言っとくが、ダ・ヴィンチは超えるべき目標で、ライバルだよ。若くしてミラノの

工房に住み込んで、これから絵で人生を始めようとしていた俺にだ、サンタ・マリア・デ

ッレ・グラツィエ教会の《最後の晩餐》は、根源的な衝撃を与えたんだ。こっちは二十歳

にもならない絵の小僧なんだぜ。百年も前の絵なのに、ビンビン俺には響いて来るじゃ

ねえか。この中に裏切り者が一人いる、そうイエスが断言した時の弟子たちの狼狽や

困惑。これは歴史画じゃない、目の前で今起こっているドラマなんだってね」

ダ・ヴィンチは革新的なんですね」

「そこがダ・ヴィンチの新しいとこだ。褒めていいとこかな。だがな、俺ならもっとうまく描

くぜ、とも思ったんだな。不遜だろ。だいたいのルネサンスの画家の絵なんざ見掛倒し

張りぼてだよ。ギリシャの古い神さん引っ張り出して、ほこりを払って珍重してやがる

んだ。ご大層なクサい田舎芝居をはい!ポーズ、みたいにやってやがる。そんな絵の

どこに、今日を生きる真実があるのかね。」

「コテンパンですねえ(笑)」

「ところが奴っこさんは別だ。不遜で不敬、瀆神的なところも俺と同じだ。違うのは結局

奴は科学と言う真実を極めたい。絵はその手段のひとつだ。俺は人間の真実を極め

たい。生きる人間のな。宗教画はその手段のひとつだなんだよ」

「では次の部屋の《洗礼者聖ヨハネ》などは、カラヴァッジョさんの思う真実なんですね」

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「うむ。白いひげを生やしたモーゼみたいな老人ばかりが聖人じゃない。それはルネサンス

の覚えたヨイショと言うもんだ。真実はもっと別のところにある。俺は若くて美しくて、隣の兄

ちゃんのような生きてるヨハネを描きたかったんだ。葦の十字架や洗礼の鉢がなければ、荒

野のヨハネとは思わないだろう」

「ふ~む。なるほど、そうだったんですね」

「安い相槌の打ち方だな。もっと感心してもいいんだがな。このうぶさを愛したくならないか」

「ああ、なるほど、ちょっとわかってきたような・・」(つづく)

 

ニューズレター配信

岩佐倫太郎  美術評論家

■後記 漫画のシナリオのつもりで書いたニューズレター。笑って読んでいただければ有りが

たいです。4月末に僕の母校である大阪の住吉高校の同窓会館でOBの方々を前に美術史

の講演をしました。面白かったのか?、終了後、多くの方が質問や挨拶に来てくださいました。

カラヴァッジョとの対話;あなたは一体、ルネサンスのどこを新しくしたのか?

■【日伊国交流樹立150周年記念 カラヴァッジョ展その①】国立西洋美術館

 

東京の国立西洋美術館。モネをはじめとする印象派絵画の聖地としても知られるが、今回は

カラヴァッジョの企画展を見たくて、伊丹から朝早い飛行機でやって来ました。緑が眩しい上野

の森を眺めながら、おなじみのコルビュジェ設計の建物に入ります。

上手な美術展のまわり方のコツについて言うと、順番にまじめに見ていくのはあまり感心しません。

よく入口では主催者あいさつなどをしっかり読んで渋滞している人たちがいますが、こう言うところ

はなるだけパス。最初は作品もそれほどなものが無いことがほとんどです。まあ本命にたどり着くま

でに疲れてしまうのももったいないので、おいしいものを体力のあるうちに食べておこうという考え。

なに、見落としが気になったら、後でもう一回、回ればいいんですから。

 

 

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さて、僕の今回の本命は、上の作品。《エマオの晩餐》。新約聖書に基づく場面です。物語はエル

サレム近郊のエマオの町の弟子が、旅人を夕食に招く。しかしながら客人が復活したキリストだとは

気づかない。まさか、死んだはずの人間がよみがえるなんて思いもしてないのでしょう。ところが、客

人がパンを祝福して裂いた瞬間、その人は誰であったのか、彼らは電に撃たれたように悟るわけです。

そんな驚きに満ちた奇蹟の瞬間を、徹底したリアリズムと演劇性、庶民性をもってカラヴァッジョは描

きだします。プロテスタントに対抗するカトリックの自己改革の機運に沿って、復活と言う最重要な

教義を、明快に再解釈して絵に定着させた手腕は大変なものです。   

カラヴァッジョはこうした「真実の瞬間」を描くのに際立った才能があり、ローマのサン・ルイジ・ディ・フラ

ンチェージ聖堂にある、出世作にして最大傑作のひとつ《聖マタイの召命》もまたその好例です。小銭

を数えていた税収吏マタイが、イエスに声をかけられ翻然としてそれまでの人生を捨てて布教の困難

な旅に出る、そのドラマの瞬間を描いたものでした。                                      

ところで《エマオの晩餐》を見て、同じくミラノにあるダ・ヴィンチの有名な《最後の晩餐》を思い出す人

もいるかもしれませんね。イエスを中心に複数の人物のゆるぎない構成、ひとりひとりが物語を語って

いる点では、百年の差がある二つの絵が、まるで親子か兄弟のようにつながっています。それに加えて

カラヴァッジョのばあい、黒い背景の中に光源を絞って人物のエッジをシャープに浮かび上がらせ、まる

で今日の映画の名場面を見ているような映像美を構成しています。カラヴァッジョの絵のかっこよさは、

このように高精細でリアルでありながら、一方で光による省略がなされて快美感がある点です。ルネサ

ンスには無かった新しいリアリティの登場です。

僕は改めて感心して、展示室の後方のフラットなベンチに座って、絵をもう一度見直していました。

                            

その時です。ぼうっと半ば放心して絵を眺めていた僕の横に、ドスンと座り肩をぶつけて来た男がいる。

無礼な奴だな!そう思って横目でにらむと・・・(つづく)。

ニューズレター配信

岩佐倫太郎 美術評論家

後記 わがニューズレターは発刊150 号を迎えました。よく続いてきたものです。それも皆様の日頃の

ご愛読やレスポンスのおかげです。いつも励まされています。ありがとうございます。

お知らせ 僕が梅田のグランフロントにある(社)ナレッジキャピタルと共同で進めて来た「超学校――東洋陶磁の魅力」

シリーズ全6回がスタートしました。ありがたいことに告知をしたら1~3回は一晩でほぼ満席になってしまいました。5回、6

回のお申し込みはこれからです。第5回は出川哲朗館長と小生の対談になります。

http://kc-i.jp/activity/chogakko/moco/vol01/

 

屏風絵の見方にはちょっとしたコツがある。それが分かると急に楽しくなるはずだ。

【生誕180年記念 富岡鉄斎―近代への架け橋―展その②】兵庫県立美術館

 

鉄斎など大型の屏風絵には鑑賞の仕方にちょっとしたコツがあって、西洋画のように俯瞰で対峙して全体の意味を考え、大きい幹から順に細部に分け入って見るといったやり方は適切ではありません。そうではなく意味を考えるのを後回しにして、まず虫眼鏡のように、双六のように部分を追い駆けながら見ていくのがいいのです。すると画中には必ず仙人や高徳の士と思しき登場人物が待ち受けています。ここでは火口原の白い装束の人物がそうです。富士に16回も登った池大雅とその仲間の登山の様子ですが、彼らはあなたの案内役、あるいはアバター(あなたの身代わり)でもあります。

 

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《富士山図 》(左隻)1898 年 紙本着色、六曲一双 清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵 ◇前期展示

 

となれば、誰かこれらの人物の一人を追いかけて、屏風の物語世界に分け入り、こころを遊ばせてしばし富士山をバーチャル・トリップすればいいのです。これぞ屏風絵の醍醐味。それが一巡した後、改めて全体を離れて見渡すとどうでしょうか。今度はマクロな俯瞰で気宇壮大な世界を掌中にすることができる。一粒で2度おいしい、視線の遠近の往復運動を、大屏風の前では近づいたり離れたりしながら、ぜひ試してみてください。

さて絵画として鉄斎の絵の特徴は、およそ3つあります。1番目はだれもが感じるように色彩感覚がシャープなこと。下の《群仙集会図》なども、抑制して使っている緑青や群青、そして赤の顔料が思わぬ効果を発揮して、西洋絵画に負けない色彩感覚が生まれる。鉄斎はゴーギャンドラクロアなどとも通ずる才能あるカラリストです。

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《群仙集会図 ぐんせんしゅうかいず》   

1916 年 絹本着色、一幅 188.0×71.2   

清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵 ◇後期展示  

 

2番目に彼のいいのは、《富士山図》にも見る如く、際立ったグラフィック感覚。絵と賛(文字)と余白のバランスがこれ以上なく小気味よい緊張感で拮抗しています。我々はすでに琳派俵屋宗達本阿弥光悦のコラボによる鶴の絵の巻物において、絵と文字が現代広告のようなグラフィックを達成済みなのを知っていますが、鉄斎の場合にはそれを一人で、しかも朱の印影なども加えながら完璧な空間を作っている。日本の文人ながら、彼の絵が西洋画に通じるといわれるゆえんのひとつです。

さて3番目の特徴は、彼の絵のユーモア感覚でしょう。近代芸術は先に進むにしたがって、神経質で狭量なものになりがちですが、鉄斎だけは例外。たくまぬ楽天の野太い笑いというものが、ちょっとした虎や仙人などの絵にも潜んでいて、折に触れて笑いがにじみだすのです。世界を肯定する力が実に大きい、と言ってもいいかもしれません。ともかくこんな事も頭の隅に置いて鉄斎を見て頂ければ、これまで縁が遠いと思っていた画家が、よく本を読み、旅をし、パワースポットでエネルギーをもらい、長生きを目指し・・・、と我々と何ら変わらない願望を持って人生に処した先達なんだとわかり、少し身近に思えてきます。そして年を取るほどに画業は自在になり、エネルギーにあふれ、現実の山河に仙境を見出し、自足した人生を歩み、あと1日で90歳まで生きました。羨ましい人ですが、我々の歳の取り方もかくありたいと思次第です(この項、完)。

 

http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1603/ ←展覧会HP

◇前期展示 4月10日まで ◇後期展示 4月12日~5月8日

 

ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎 

■後記 僕の家の近くの宝塚中央図書館には、図書館の中に「聖光文庫」という美術専門の図書室があって、そこの図書の購入は、鉄斎美術館の入場料の全額寄付で賄われています。蔵書は古今東西の美術史、絵画、書、彫刻、工芸、考古、建築、庭園など大変な充実ぶりで、僕にとってもこれほどありがたいことはなく、美術評論の活動をしたりできるのも、この図書室があったればこそ。それで何かお礼をしなければと、去年の秋は図書館で無料講演会を開いていただき、鉄斎の絵の見方や陶淵明の詩の関連について話させてもらいました。

 

 

鉄斎は現実と空想を往還しながら、まったく新しい理想郷(仙境図)を作り上げた。

 

■生誕180年記念 富岡鉄斎―近代への架け橋―展】兵庫県立美術館

その①

神戸市の兵庫県立美術館では、宝塚の清荒神にある鉄斎美術館のコレクションを中心に、各地の国公立美術館や宮内庁からも作品を集めて、最後の文人画家で巨匠と言われる富岡鉄斎(1836~1924)の画業を克明にたどる大掛かりな展覧会が開かれています。

f:id:iwasarintaro:20160324134838j:plain《富士山図 》(右隻)1898 年 紙本着色、六曲一双 清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵 ◇前期展示

まず文人画とは何か、その辺から明かにしておきましょう。文人画とは、詩人や政治家など絵描きではない職業のものが、あくまで余技として楽しみのために描く絵のことを指します。水墨画や淡彩画が主です。たとえば有名な宋の詩人にして書家の蘇軾の絵などはその例。日本だと南画とも言われますが、江戸の俳人の蕪村の絵なども思想的にはまさに同じです。彼らの描く絵は本質的に売り絵ではないので、売れセンを狙ってこれ見よがしな技巧を見せつけたりする訳でもなく、むしろエスプリと真情にあふれたイノセンスが特徴とも言えます。絵の種類は、人物画や風景画はもちろんのこと、これに加えて「仙境図」と言われる、文人の胸の中に宿る理想郷を空想的に描く、きわめて特徴的な伝統のジャンルがあります。僕から見ても最も面白いのはこの仙境図です。                       
さて、上の画像は≪富士山図≫ですが、鉄斎63歳のときの作。六曲一双の右隻。横幅は3.5メートルを越え、今展の目玉中の目玉でしょう。鉄斎美術館所蔵で、宝塚市指定有形文化財にもなっています。僕もこれをもう一度見たくて足を運びました。
この絵がなぜいいかと言うと、鉄斎絵画の本質を最もよく表わしているからです。というのは、ふつう人はこれを富士山というリアルな風景画(真景図という)と思いがちですが、さにあらず。よくご覧あれ。鉄斎の手にかかると、秀麗かつ端正なはずの富士山が、かくもデフォルメされ、人外魔境というか妖気を孕んだ世界に変身する。現実は現実でなく、リアルを超え、鉄斎はもうすでに富士山のうちに仙境を見出しているわけです。
この右隻は、そうしたSF的なまでに非日常的な物語世界へ、見る者をして誘い込む巧みな導入部となっている。リアルと空想の往還こそ、鉄斎絵画の目指す世界観です。                                    
そして見る人の目が左隻に移ると、そこには空中から眺めたありえない角度の富士山頂の姿が、まがまがしいまでに立体的に存在する。これには驚きます。多くの人は富士山の絵と言えば、北斎や大観やまた片岡球子あたりの平面的かつデザイン的な絵は知っている。しかしこの鉄斎のように火山の霊気を受け止め、エネルギーを舐め取るようにして描いた絵は知らなかったのではないでしょうか。

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《富士山図 》(左隻)1898 年 紙本着色、六曲一双 清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵 ◇前期展示

 天に届きかねない大地の頂点で、宇宙の統一的ともいうべきエネルギーが流露するのを感得し、自ら共振しながら描いている作品です。「万巻の書を読む」ことをモットーとした教養人鉄斎の、仏教・儒教道教の3教に神道を加えた膨大な教養の蓄積が一挙に自噴して、余人のなしえない幻視を実現してしまったと見てもよいのではないか。僕はこの宇宙的な力とのヴァイブレーションを見るとき、ついオランダのゴッホが神経の被覆をむき出しにして、星月夜や糸杉と感応しあったことを想起せずにいられません(つづく)。
 http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1603/ ←展覧会HP

会期は2016年5月8日(日)まで  作品の入れ替えあり

 
美術評論家 岩佐倫太郎 
■後記 今回の県立美術館展を共催する鉄斎美術館は、我が家からも近くにあって、僕も清荒神神さんを散歩するついでに寄る行きつけの館にしています。柱のない広大な展示室はまことに見やすく、屏風絵などをウンと近づいてディテールを確認したり、逆に遠く離れてみて、雄大な構図法や余白の使い方の巧みを感服して見たりしながら、鉄斎ワールドを楽しんでいます。