ジャポニスムは、始め異国趣味として受け入れられるが、次第に技法と思想でヨーロッパ人を圧倒する。
■■【京都大学時計台講演~浮世絵と印象派~ジャポニスム◆WEB講座①】■■
フランスにおけるジャポニスムの始まりについては、面白いエピソードがある。パリ
にブラックモンと言う版画家がいて、19世紀の後半の事だが、ある時、友人より日
本から送られてきた焼き物の包装や緩衝材に使われた紙を渡される。そこにはま
だ見たこともない、いとも珍しい異国的な絵模様が刷られていたのである。驚嘆し
た彼は直ちに、マネやドガなどの仲間に知らせたばかりか、みずからも焼き物に応
用して見せる。それが下の画像だ。元の浮世絵は広重の「魚づくし」かと思われる。
フェリックス・ブラックモン《赤魚に雀図皿》1867年 広重《魚づくし――赤魚》1863年 左右反転
確かにジャポニスムは始め、ちょっとした異国情緒、ブルジョワのエキゾティズムと
して受け入れられたかもしれない。しかしながら、1858年(安政5年)の日本の開
国やヨーロッパ各地での万国博への出展によって、日本の工芸・美術品の超絶技
巧や色彩・デザインは大いに知られるところとなり、たちまちにして熱狂的な賛美者を生み出したのである。文明度の高い国が250年も鎖国して、他国の影響を受けずガラ
ラパゴス的に発展したらどうなるのか。結果生まれた奇蹟的な美の楽園は、西欧人の
思う美術の進化とは隔絶していて、驚愕と憧憬の対象となった。のちに印象派の巨匠となるモネなども、熱心な浮世絵コレクターで、自身でも着物姿の妻の、扇を持った肖像画を描いている。また、ゴッホのケースも取り上げない訳にはいかないだろう。彼は広重に心酔した。有名な模写も、何点か残している。ところで、右の絵の漢字の部分を仔細に見て頂きたい。ゴッホは漢字を知らないのに、模様としてけなげにも漢字を一生懸命、引き写しているのだ。また雨を線で表現するなどと言うことも、当時の西洋画の作法としてはあり得ないのだが、構わず彼は模倣した。ぞっこんぶりが見て取れる。
広重《大はしあたけの夕立》1863年 ゴッホ《日本趣味;雨の大橋》 1887年
僕が想像するにゴッホは、熱いマグマのような宗教的才能を生来的に持っていた。
若い頃宣教師をしたのも、その情熱のなせるわざだろう。しかしその情熱はどうも
不器用で、スマートに一神教的な教義を受け入れることはできず、むしろアニミズ
ム的と言える多神的な宇宙と、感覚を開放して交感していた人のように思われる。
「被覆しないむき出しの電線」みたいで大変危険ではあるが・・。そんな彼だから、
パリに出て浮世絵に遭遇したとき、これぞ自分の求める究極の楽園だと、感電し
たように痺れて、狂喜したのではないか。それどころか、技法も世界観も、根本的
なところで揺すぶられて、自分の描画法の大きな変換を果たしたのだろう。
試しに比較して頂きたいのだが、下のオランダ時代の絵の暗さはどうだろう。それ
に引き換えパリでの、浮世絵を引用しまくりの絵の鮮やかで吹っ切れのいいこと!
一皮もふた皮もむけている。もうこれはゴッホ流の宗教画ともみなせるだろう。
右の絵を見るとゴッホはゴーギャンと並んで、卓抜したカラリスト(色彩家)であ
る事も見てとれる。その色彩感覚は何処から来たのか?浮世絵は版の数が限られて
いるから、写実的でない色遣いをする。色による平面的な画面分割も必然だ。ゴッ
ホの色はそこから来たと考えたい。(WEB講座次回はセザンヌ)。
ゴッホ《馬鈴薯を食べる人々》1885年 ゴッホ美術館 《タンギー爺さん》1887年 ロダン美術館
さて、7月8日(土)の京大講演会の本番では、浮世絵の明白な印象派への影響を、
マネ、モネ、ゴッホなど作家ごとに、作品を浮世絵と対比させながら、森耕治先生と
一緒に多くの画像を用いて、わかりやすく話をさせて頂きます。
■お問合せ、申し込みは iwasarintaro@gmail.comまたはこのメールにそのままご返信ください。
講演;14時から16時(4千円)、懇談会17時から19時(6千円、同じ時計台のラ・トゥ―ル)。
90名を超えるご予約をいただき、残席わずかになりました。まもなく締め切らせていただきます。
岩佐 倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ