北斎展にちなむ、朝日カルチャーセンター公開講座の講義録

北斎は波や滝など「水」を通じて地球の精妙と永遠に迫った、江戸最大の天才浮世絵師だ。

開催中のあべのハルカス美術館北斎―富士を超えてー」。一昨日、小生も

それにちなんだ公開講座を兵庫の川西の朝日カルチャーセンターで開催させ

てもらった。おかげで会は補助イスを出すくらいの盛況ぶり。ご参加の皆様に

は改めて御礼申し上げます。

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端午の節句》文政7~9年(1824~1826)頃ライデン国立民族学博物館 《下野黒髪山きりふりの滝》天保4年(1833)頃 前北斎為一筆 大判錦   絵/西村屋与八37.0×24.5 東洋文庫

 

講座の前半はおもに北斎の年譜に沿って話を進めたのだが、面白いことに北斎

は60歳になるまでは大した仕事をしていない。腕はいいが頼まれ仕事をこなす

職人のレベルだったのではないか。上の左は60歳代半ばに入って、オランダ商

館の医師、 シーボルトの依頼で日本の風俗習慣を描いたもの。達者で西洋画の

遠近法もきっちり身に着けているものの、後年の削いで研ぎ澄ましたような天然

美への憧憬はまだ見られない。

北斎がようやく己の天分に目覚めるのは、驚くばかりだが70歳を過ぎての事だ。

《神奈川沖浪裏》などであまりに著名な「富嶽三十六景」も、《霧降の滝》に見るよ

うな「諸国瀧廻り」も、すべて70歳代前半の業績だ。版元の西村屋与八と組んだ

事も大きかったと思われる。また浮世絵の複製技術による安価な美術品の流通

体制も整備が進んだ。当時のかけそば1杯の値段、大判の絵でもかけそば2

杯と言うからと、庶民にも手の届く今日の雑誌のような存在になっていたのだろう。

加えて、「ベロ藍」と呼ばれた舶来の、蛍光的なまでに鮮やかな青色染料の流入

北斎が江戸画壇の人気絵師になるのに、強い追い風だったに違いない。

今回改めて北斎作品を仔細に見なおして彼はSENSE OF WONDERの人だと

思った。理屈や絵の技術以前に、北斎はこの世界の成り立ちが不思議でならない。

わが地球を崇敬の念で眺め、驚きをもって感応している。その感動を表したくて波

や富士や滝を描く。感動こそが彼の創作のエネルギー源で、売りだけを考えたもの

ではない。そしてついには対象に没入し、永遠とも思える一体感を表現んしている

のだ。はじめ形態の面白みやデザインから入ったかもしれないが、一連の富士の

ような主観的なデフォルメに進み、最晩年にはイリュージョンと現実が混然一体と

なった画境に達する。満88歳で亡くなったが、本人はあと5年あれば神域に至る

ことができると語るほど、年齢とともに技量は冴え進化を止めない人だった。

北斎の没年である1849年に描いた作品が何点か、展覧会でも見ることができる。

虎と龍の2作品を挙げておくが、いずれも死を前にしながら晴朗で陽気なエネルギ

ーに溢れている。北斎の年の取り方、世の去り方に大いに憧れる。

 

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《雪中虎図》嘉永2年(1849)正月 個人蔵、ニューヨーク 《富士越龍図》 嘉永2年(1849)正月11日または23日 北斎

 

岩佐 倫太郎  美術評論家/美術ソムリエ 

 

北斎展の公式サイト  http://hokusai2017.com

 

 

 

端午の節句著作権©Collection National Museum van Wereldculturen. RV-1-4482h   

◆会期中、展示の入れ替えがある作品もあります。事前にご確認ください。

◆後記◆ 

出席された年配の方からメールを頂いたら、「定年後

20年、内外の美術を見て歩いているが、岩佐さんの話をもっと先に聞いておきたかった」とありました。僕も励まされます。

 

 

【ジャポニスム遺聞~印象派画家を助けたタンギー爺さんと林忠正】   

去る7月8日、京都大学の時計台で行った森耕治先生とのリレー対談の要旨は、

一言でいえば日本の浮世絵がジャポニスムを生み、印象派の発生を促した、と言

うことだ。その事実を北斎などの浮世絵とモネ、セザンヌなどの絵で実証しつつ交

互に語らせて頂いた。実にアンドレ・マルローも言うように、「印象派の人々が浮世

絵を発見したのでは無い。浮世絵に心酔した青年たちの間から、印象派が生ま

れた」のである。これは400年続いたルネサンスの美の様式が潰えると言う、

西洋美術史上の一大事件だった。                                                          

  •          

ところで、ジャポニスムを通じて印

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象派画家たちが生まれる中で、僕

には気になる二人の男が居る。一

人は左の肖像画タンギー爺さん。

パリ・コミューン(1871)に参加して

逮捕され、ノルマンディの刑務所に

入牢した後、モンマルトルで画材屋

を開く。モネ、ルノワールセザンヌ

らまだ売れない貧しい画家たちを支

援し、彼らが絵の具の代金が払えな

いときは、作品で受けとったのは有

名な話である。まあ、任侠心の篤い

「義人」ともいうべき存在なのだろう。

とくにゴッホにとって、1886年にパ

リに出て来て翌年には、作風を別人

のごとく明るく一変させるが、それは

ゴッホ 《タンギー爺さん》 1887 ロダン美術館   

浮世絵に出会って心酔しただけでなく、タンギー爺さんの店で印象派の面々

たちに出会えたことも大きく、またタンギー爺さんの援助も手厚くあってのこと

では無かったか。モデルの慈顔の描き方を見ると、精神的に孤立しがちなゴッホ

とって信頼できる特別な存在だったことを表している。ゴッホは浮世絵に触発され

自らの画風をここで確立し、翌年勇躍、日本的な光の桃源境を求めてアルルへ出

かける。惜しいかな精神を病んで例の耳切り事件を起こし、終にはパリの北郊で

自死することになるのだが。彼の命日はちょうど昨日の7月29日。葬儀の折は

ダンギ―爺さんも参列するが、自身も4年後には没し、娘さんによってこの絵はロ

ダンに売られ、それゆえロダン美術館のコレクションとなって現在に至る。

  •                             

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さてもう一人は、日本人の林忠正(1853-1906)である。

講演会でも触れたが、1878年のパリ万博開催を機に東

大を中退してフランスに渡り通訳として働く。その後、現

地で美術店を開いて日本美術の紹介と普及に務めた。

森先生の話にもあったように、モネの浮世絵コレクション

231点の多くは、林から得た。またドガ、マネらとも親しく

交流し、シスレーが死んだときは遺族への経済支援もし

ている。文学者のエドモン・ド・ゴンクールが、浮世絵の

評釈、「歌麿」と「北斎」の出版にこぎつけたのも林の語

学力と日本美術の知識に負う所が大きかった筈だ。

 林忠正 1853-1906               ●

1900年のパリ万博では、林忠正は日本出展の事務官長となる。彼は平安時代

以降の絵画、仏像、工芸など日本の国宝級の美術品を並べて展示紹介を試み、

大評判をとり、仏政府からはレジオン・ドヌール3等賞などを授与される。また法

律を学びにパリに留学していた黒田清輝を画家の道に転身させたのも特筆もの

だろう。のち黒田は有名な傑作、《湖畔》(1903東京国立博物館)を描き、近代

日本洋画の父と呼ばれるようになったのだから。林忠正については今後、業績

の再評価がもっと進むべきだと、強く思われる(ジャポニスムの項、完)。          

岩佐 倫太郎  美術評論家/美術ソムリエ 

 

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7月8日の講演料の一部を、森耕治先生と連名で「京都大学基金

のうち、ips細胞の山中伸弥先生の研究を指定して寄付させて頂き

ました。

 

このメールマガジンの受け取りが初めての方へ。バックナンバーは

 

http://iwasarintaro.hatenablog.com/ でもご覧いただけます。

 

岩佐倫太郎ニューズレター【京都大学時計台講演~浮世絵と印象派~ジャポニスム◆WEB講座①】No173.1706

ジャポニスムは、始め異国趣味として受け入れられるが、次第に技法と思想でヨーロッパ人を圧倒する。

 

■■【京都大学時計台講演~浮世絵と印象派ジャポニスムWEB講座①】■■     

 

フランスにおけるジャポニスムの始まりについては、面白いエピソードがある。パリ

にブラックモンと言う版画家がいて、19世紀の後半の事だが、ある時、友人より日

本から送られてきた焼き物の包装や緩衝材に使われた紙を渡される。そこにはま

だ見たこともない、いとも珍しい異国的な絵模様が刷られていたのである。驚嘆し

た彼は直ちに、マネやドガなどの仲間に知らせたばかりか、みずからも焼き物に応

用して見せる。それが下の画像だ。元の浮世絵は広重の「魚づくし」かと思われる。

 

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フェリックス・ブラックモン《赤魚に雀図皿》1867年 広重《魚づくし――赤魚》1863年 左右反転

確かにジャポニスムは始め、ちょっとした異国情緒、ブルジョワのエキゾティズムと

して受け入れられたかもしれない。しかしながら、1858年(安政5年)の日本の開

国やヨーロッパ各地での万国博への出展によって、日本の工芸・美術品の超絶技

巧や色彩・デザインは大いに知られるところとなり、たちまちにして熱狂的な賛美者を生み出したのである。文明度の高い国が250年も鎖国して、他国の影響を受けずガラf:id:iwasarintaro:20170511125108j:plain

ラパゴス的に発展したらどうなるのか。結果生まれた奇蹟的な美の楽園は、西欧人の

思う美術の進化とは隔絶していて、驚愕と憧憬の対象となった。のちに印象派の巨匠となるモネなども、熱心な浮世絵コレクターで、自身でも着物姿の妻の、扇を持った肖像画を描いている。また、ゴッホのケースも取り上げない訳にはいかないだろう。彼は広重に心酔した。有名な模写も、何点か残している。ところで、右の絵の漢字の部分を仔細に見て頂きたい。ゴッホは漢字を知らないのに、模様としてけなげにも漢字を一生懸命、引き写しているのだ。また雨を線で表現するなどと言うことも、当時の西洋画の作法としてはあり得ないのだが、構わず彼は模倣した。ぞっこんぶりが見て取れる。

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 広重《大はしあたけの夕立》1863年  ゴッホ《日本趣味;雨の大橋》 1887年

 

僕が想像するにゴッホは、熱いマグマのような宗教的才能を生来的に持っていた。

若い頃宣教師をしたのも、その情熱のなせるわざだろう。しかしその情熱はどうも

不器用で、スマートに一神教的な教義を受け入れることはできず、むしろアニミズ

ム的と言える多神的な宇宙と、感覚を開放して交感していた人のように思われる。

「被覆しないむき出しの電線」みたいで大変危険ではあるが・・。そんな彼だから、

パリに出て浮世絵に遭遇したとき、これぞ自分の求める究極の楽園だと、感電し

たように痺れて、狂喜したのではないか。それどころか、技法も世界観も、根本的

なところで揺すぶられて、自分の描画法の大きな変換を果たしたのだろう。

試しに比較して頂きたいのだが、下のオランダ時代の絵の暗さはどうだろう。それ

に引き換えパリでの、浮世絵を引用しまくりの絵の鮮やかで吹っ切れのいいこと!

一皮もふた皮もむけている。もうこれはゴッホ流の宗教画ともみなせるだろう。

右の絵を見るとゴッホゴーギャンと並んで、卓抜したカラリスト(色彩家)であ

る事も見てとれる。その色彩感覚は何処から来たのか?浮世絵は版の数が限られて

いるから、写実的でない色遣いをする。色による平面的な画面分割も必然だ。ゴッ

ホの色はそこから来たと考えたい。(WEB講座次回はセザンヌ)。

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ゴッホ馬鈴薯を食べる人々》1885年 ゴッホ美術館 《タンギー爺さん》1887年 ロダン美術館

 

さて、7月8日(土)の京大講演会の本番では、浮世絵の明白な印象派への影響を、

マネ、モネ、ゴッホなど作家ごとに、作品を浮世絵と対比させながら、森耕治先生と

一緒に多くの画像を用いて、わかりやすく話をさせて頂きます。

お問合せ、申し込みは iwasarintaro@gmail.comまたはこのメールにそのままご返信ください。

講演;14時から16時(4千円)、懇談会17時から19時(6千円、同じ時計台のラ・トゥ―ル)。

90名を超えるご予約をいただき、残席わずかになりました。まもなく締め切らせていただきます。

岩佐 倫太郎  美術評論家/美術ソムリエ    

 

 

【アレクサンダー大王の東方遠征が、ヘレニズムを生んだ】 NO.172ー1705

アレクサンダー大王は、ギリシャ美で世界を征服した。21世紀の我々も、まだその虜囚である。

 

□■□【ギリシャ・シリーズ最終回。アレクサンダー大王の東方遠征が、ヘレニズムを生んだ 】□■      

 

講演会などを多忙の口実に、しばらくギリシャ美術について書くのを怠っていたら、その間に神

戸の「古代ギリシャ」展は終了してしまった。まあ、何ともおまぬけな話ではあるが、アレクサンダ

ーの事だけは書いておかないと、僕としてはギリシャ美の話が完結しない。今回が最終回です。

                            ●

アレクサンダー大王(紀元前356332)の話はもう有名なのでここでは大概略を記すだけにと

どめておく。ギリシャの北にあるマケドニアの王家に生まれた不世出の英雄と言っていいだろう。

若い頃、哲学者アリストテレスを家庭教師とし、当時最高の知性から直接、哲学や地誌、帝王学

などを学ぶ。20歳の時、父王がテロリストの凶刃に倒れるや、若いながら即、王位を継承する。

cid:image001.jpg@01D2D6F3.BA9E01C0https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c3/Battle_of_Issus_mosaic_-_Museo_Archeologico_Nazionale_-_Naples_BW.jpg/1920px-Battle_of_Issus_mosaic_-_Museo_Archeologico_Nazionale_-_Naples_BW.jpg

イッソスの戦い》(BC333)のモザイク画。愛馬に乗るアレクサンダーと中央、戦車のペルシャ王ダリウス。

 

リシャ諸都市を統一し、エジプトを制圧してファラオとなったのは弱冠24歳の時。ついでペル

シャ王ダリウスを追ってメソポタミアの地に大軍を率いて東征し、諸都市を支配下に組み入れな

がら、ついには王を放逐し、ペルシャ王国の解体に成功する。                        

ここでやめておく手もあっただろうが、天才の野望は大軍をさらに東に向かわせ、終にインダス

川に達し、インド王さえも服従させる。しかしさすがに兵站は持ちこたえられず、ついにはバビロ

ンに引き返し、その地で得た病によって、戦いに明け暮れた33年の生涯を閉じることになる。

まことに太く短い英雄物語りなのであるが、その版図の大きさは眼をむくほどのものだ。北はド

ナウ川、南はアフリカ北岸、東はインドまで、わずか十数年で一大帝国を築いたのである。シー

ザーやナポレオンが彼を崇拝し、わが身になぞらえたくなるのも判るではないか。

                            ●

ところで彼の遠征の性質は、奪って焼き尽くすだけの「戦争」とは相当趣が違っている

ので注意が必要だ。アジアにギリシャ人を植民しながら進む民族の大移動であり、学者

を伴う学術踏査であり、橋や港湾などのインフラ整備を行い、アレクサンドリアと言う

我が名をつけた都市まで多く建設している。また、ペルシャ人とマケドニア人らの1万

人の合同結婚式まで執り行った史実も残っている。こうした10年以上にわたる何十万人

もの人間の1万キロメートルにも及ぶ進軍が、そのままギリシャ式のライフスタイルと

美学を運搬し、交流を促進し、それこそ混血による「ヘレニズム」を生んだのである。

                   ●

ヘレニズムはアレクサンダーの文化遺産のようなもので、彼の武力による世界統一の夢

こそは紀元前323年バビロンに潰えたが、ギリシャ文化はアジアにもヨーロッパにも広

大な版図の美の帝国をその後も築く。ミロのヴィーナスもラオコーンもその代表作品だ。

ギリシャ人はイデアを形にする才能に恵まれているのだが、ちなみにインドのガンダー

ラで仏像を初めて彫刻に刻んだのも彼らだ。そうなると日本の我々もまたアレクサンダ

ーの伝搬したギリシャ美の様式の継承者と言えなくもない。と言うのは例えばインドの

グプタ王朝様式とされる薬師寺の国宝の日光・月光菩薩などを見ても、腰をひねり片足

体重の踊るような姿態は、源流は明らかにコントラポストと呼ばれるギリシャ美の規範

なのだ。インドの向こうにギリシャが色濃く透けて見える――、これは誰も否認する訳

にはいかないだろう。

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ガンダーラで仏像が彫られ始めたのは紀元1世紀。ドラクロアの《自由の女神》もギリシャ式の風貌だ。

 

ギリシャの発明品である8頭身や高い鼻梁、筋肉質なやせた頬の造形などは、西洋の近

代にまで影響を与え、我々の美人像をも規定している。我々は旅先の美術館などでそれ

を発見することも多いではないか。ギリシャ美の確立から2千年以上後の今も、世界は

ギリシャ美の捕囚である。そう考えると2千年の昔なんて、そんなに遠い過去ではない

ギリシャ美の項、全7回完)。バックナンバーは http://iwasarintaro.hatenablog.com/ 

 

岩佐 倫太郎 美術評論家 美術ソムリエ   

 

 

なぜアレクサンダー大王はかくも連戦連勝を重ねられたのか。武勇伝は別にして、全くの僕の仮説ではあるが、

「鉄」の技術の差があったのではないか。鉄の王国=ヒッタイトが紀元前⒓世紀に滅びたあと、安くて大量に作

る精度のいい「鋳鉄」の技術をマケドニアが開発し、槍・刀などの武具や食糧増産の農耕具を圧倒的な格差にま

で発達させた。その鉄文明の差で戦争を支配し、終には美の世界水準をも作り上げたと見るが、どうでしょうか。

 

■7月8日の京大時計台講演会は、講演・立食懇談会ともに満席に近づいています。お申込は iwasarintaro@gmail.com

 

薬師寺 国宝・日光月光菩薩HP  www.nara-yakushiji.com/guide/hotoke/hotoke_kondo.html

 

 

 

京都大学◆時計台講演~浮世絵と印象派~ジャポニスムのご案内

まずはこの2つの絵を見比べて頂きましょう。共通するものは何か?確かに「ヌード」ではある。それ以外には?実はこの2点の絵、どちらも同じ1863年に描かれたものなのです。左はカバネルと言う画家の《ヴィーナスの誕生》。皇帝、ナポレオン3世のお買い上げの栄誉を受ける。一方、マネのそれに対しては、ブーイングの嵐。

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カバネル《ヴィーナスの誕生》1863年        マネ《オランピア》1863年

もう21世紀の住人である我々の美術の常識では、もちろんマネが名画でカバネルは退屈(名前も知らない)、と言うことになってしまうのだが、当時は真逆。カバネルはアカデミーの超エリートで、ヴィーナスの造形はギリシャそのものの完璧さ。滑らかな筆のタッチは今日の写真のようにゾクっとするリアルさを備えている。

しかも天使を飛ばせて、これは神話ですからね、と言い張って明らかにポルノグラフィとしての嗜好も満たしている。一方、マネのはチンチクリンな、さしてモデルにふさわしいとも思えない女性が、奥行きもない平面の世界に寝転がっている。大小比も変だ(この二つの絵はどちらも、現在はオルセー美術館で見ることができる)。

以前に僕は、「マネは静かにルネサンスの首を切り落とした」と表現した。それはマネの絵が、400年以上続いたルネサンスが自負するところの遠近感や写実性をあっさり捨てているからだ。また、ここの説明は難かしいのだが、絵はある瞬間のある物語を表現しなければならない、と言った旧来の大原則も無視されている。色と形と意味がかろうじて具象の形を借りながらつながっているものの、実はもう古典的な絵画の文法や時

間空間はなく、限りなく後年の抽象画の精神に近いところへ突入してしまっている。マネはほかの印象派の画家と比べても、ひときわドラスティックで先鋭的だ。そこが後世に大きく高く評価されるゆえんなのだが・・・。

                    

さあ、それでは一体、なぜマネがこんな巨大な歩みを進めることができたのか。「うっそー」と言われるかもしれないが日本の浮世絵の影響が大きい。幕末、鎖国体制が解かれると、浮世絵をはじめとした日本の美術品がどっと欧州に流れ込み、ジャポニスムと呼ばれる日本趣味が彼の地で形成され、画家たちが熱狂する。

 

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モネ《ラ・ジャポネーズ》1863年  広重《亀戸梅屋敷》とゴッホ《梅の花》、《ダンギ―爺さん》  

モネやゴッホなどは広重をはじめとする風景画にも多大なインスピレーションを得て、自分の画風を確立した。マネの場合も、浮世絵の平面感覚や色彩に影響を受けただろうし、なかでも僕の自説であるが、春画の影響は多大だったろう。輸出された浮世絵の5分の一が春画キリスト教倫理に縛られたヨーロッパにあって、春画が果たした性意識の開放は、当時の西洋人にとって文化と思想の大衝撃だったに違いない。ドガもクールベらもこぞって、あからさまに春画の影響を受けた作品を残している。アンドレ・マルローが言うように、「浮世絵が印象派を作った」というのが、美術史の真実なのだ。

さて、今度の講演会では浮世絵の明白な印象派への影響を、マネ、ゴッホ、モネなどの画家ごとに、作品を浮世絵と対比させながら、森耕治先生と一緒に検証していく予定です。ご参加をお待ちしています。 

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すでにお申し込みが60名を超えました。申し込みは iwasarintaro@gmail.com

 後日振込などについてご案内します。◆講演14時から16時◆パーティ17時から19時

(同じ時計台の中のラ・トゥ―ル)

 岩佐 倫太郎 美術評論家 美術ソムリエ         

 

 

 

岩佐倫太郎+森耕治 美術リレー対談@京都大学(毎日新聞社後援)ジャポニスムとは何か~「印象派と浮世絵」

岩佐倫太郎+森耕治
■美術リレー対談@京都大学■(毎日新聞社後援 牧野出版協賛)

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気鋭の美術評論家、美術史家が対話形式で語る、日本と西洋美術の驚くべき交流史。グローバルに仕事をする日本人のための講座です。日本の浮世絵(春画を含む)が西洋の近代美術史に大きな影響を与え、モネ、ゴッホなど「印象派」とそれ以降の美術の流れを作った事実を画像で実証。西洋文化を一方的に輸入してばかりと思いがちな日本が、実は西洋美術に大きく貢献していたことを語り、文化的なアイデンティティと誇りを再発見する。...
日時;7月8日(土)14時から16時まで
会場;京都大学百周年時計台記念館2階国際交流ホール
講演会の詳細は4月以降にお知らせします。
なお17時より19時まで同じく時計台下のフレンチ・レストラン「ラ・トゥール」で限定メンバーによる立食懇談会を予定。
会費;講演会のみの方4000円 懇談会と共通で10,000円。いずれも消費税込み。
申込;銀行への振り込みをもって、先着順で参加を確定する方式に致します。改めて振込口座など詳細を後日お伝えします。
 
 

古代オリンピックがギリシャ美を生んだ、と僕は主張してますが、ご納得いただけるだろうか。

■□■特別展【古代ギリシャー時空を超えた旅ー】(神戸市立博物館) その□■      

 

ギリシャ美を語ってもう6回目。おまけにプラトン哲学まで引っ張り出したものだから、

読者諸賢からは「ちょっとしつこいんじゃないの!」と閉口されているかもしれない。

僕も早く本題の古代オリンピックギリシャ美の話に進みたいのだが、もう少しだけ哲

学のことを語るのをお許しいただきたい

 

ギリシャと周辺の植民地に紀元前5世紀前後、哲学者が一斉に現れ始めたのだが、

目をもう少し東方に転ずると、同時期にインドでは釈迦中国では孔子老子現れ、

しかもみな遊行して教えを説くのである。人類にとって、またわれわれ日本人にも、多

大な影響を与えた思想はほとんどこの時期生まれているいったいこの符合は何か。

 

ドイツの哲学者、カール・ヤスパース1883-1969)は、この時代の特異性を「枢軸の

時代」と名付けている。枢軸とは分かりにくいが、地域が呼応しあうということか。とこ

ろが彼は、なぜこんな現象が起きたのかは、謎で不思議だ、としている。

                         ●

僕が思うにこれは不思議でも何でもなく、ユーラシア大陸広汎に青銅から鉄へと

イノベーションが起こり、量産が効いて安価で強い鉄の農具が行き渡り、食料生産革

命が起こったからだと想像する。そのため都市が各地に誕生し、食糧生産に直接か

かわらない思想家をギリギリえるレベルに達したのだと思う。要約すれば「哲学は

鉄から生まれた」、のである。それでは鉄の文明の源流は、と言うと僕は小アジア(ト

ルコ)の鉄の帝国ヒッタイトだと推測するが、この話は長くなので別の機会に

                         ●

さて、ようやくオリンピックの話をするところまで来た。2020東京オリンピックは、一体

何回目かご存じだろうか。わずか32回目だ。近代オリンピックはまだ百年ほどの歴史

しかない。ところが古代オリンピックは、ギリシャの都市でなんと1200年の長きにわた

って、つまり300回以上開かれた。

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 《ディスコボロス》ミュロン 紀元前450-440年を紀元2世紀に摸刻 大英博物館(参照画像)赤像式パテナイア小型アンフォラボクシング》前500年ころ アテネ国立考古学博物館蔵 cThe Hellenic Ministry of Culture And Sports-Archaeological Receipts Fund

見功者(みこうじゃ)と言う言葉がある。歌舞伎やアイススケートなどのファンの方はお

分かりだと思うが、人の目はすぐ肥えるのである。それが300回も続いた時の蓄積た

るや・・・。このことを人は想像できるだろうか。

 

ギリシャ人は強さだけでなく形態の美しさも比べ、鑑賞し、ついには絶対美の法則を抽

出して最も理想のモデリングを作ろうと努める。古代オリンピックの代表競技は、ボクシ

ング、レスリングなどだが、上の有名な《ディスコボロス》(今展には来ていないので注意

あたりを見れば、言わんとすることはお分かり頂けるだろう。

 

片足に体重をかけ体をひねる、ギリシャ彫刻独特の美の様式の原型が、もうここにある。

「コントラポスト」と言われるが、動を孕んだ静止美、ストップモーションのような緊張感の

ある凝縮した美意識だ。コントラポストは初め男像を刻むのに用いられ、次いでヴィーナ

ス像にも応用され、終には近現代の美の規範となって、今も美の世界に君臨している。

 

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思えば今から2500年前の昔、ユーラシア大陸は青銅器と神話の時代から、鉄による

食料生産革命を経て、哲学やスポーツや芸術が花開く都市文化の時代に移る。のちの

ルネサンスも含めて、現代の原風景はすべてここにある。それゆえに僕はギリシャのこ

の時代を強く憧憬する。さて次回はアレクサンダー大王とヘレニズムについて(続く)。

  

岩佐 倫太郎 美術評論家 美術ソムリエ    

 

NHK文化センター西宮ガーデンズ教室で特別講座を開きます。416日(日)1330

 京都国立博物館「海北友松」展(411日~521日)にちなみ、

「海北友松~龍で読み解く東西美術史」。詳細とお申し込みは NHK文化センター  

電話0798-69-3450 または https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1119201.html