今年が琳派400年に当ることは美術ファンなら、もうご承知のことでしょう。その起点は何かというと、
1615年、本阿弥光悦が京都北郊、鷹が峯の土地を徳川家康から拝領し、芸術村を開いたことにち
なみます。なるほど、2015引く1615で400年かと僕も納得し、今年は京都の国立博物館や細見
美術館、また箱根の岡田美術館などを見て歩きました。
日本の美意識やグラフィック・デザインの原点とも言うべき琳派。たとえば下にある画像は、つい先
日、京都の国博で見た琳派の開祖とされる光悦と俵屋宗達のコラボ作品です。これなどはもう画像
と文字の組み合わせが凄くて、余白のゆるぎなさも見事。今日の広告グラフィックのお手本のようで
す。静的なのにアニメ的でもあって、ストップモーションしたダイナミズムがみなぎっていますね。
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その美意識はいまだ僕らも越えられず、400年経っても地続きであることを感じずに居られません。
優美な王朝趣味に加えて、自然をパターンとして解体して省略や反復によって巧みに再生するやり
方は琳派独自のもの。大きさを変えて焼き物や工芸品にもそのまま転用できる、近代的な技です。
鶴図下絵三十六歌仙和歌巻 絵=俵屋宗達 書=本阿弥光悦 京都国立博物館 重文
とまあ、そんな風に琳派作品を享受していた訳ではありますが、ある時ちょっと待てよ!と思い始めた。
それは僕が関西に転居したせいかも知れません。この1615年という年が妙に気になってきた。ご存知、
大坂夏の陣の年です。前年の冬の陣であらかた堀を埋められていた大坂城は、この年の5月(旧暦)、
徳川方より大砲の砲撃を受け、城は炎上。秀頼と生母の淀殿(茶々)は自害して、豊臣家は滅び、いよ
いよ完全に徳川の世になったわけです。これと琳派誕生は実はつながっています。
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思うに、家康は徳川の治世の到来を、世間にしっかりとインパクトをもって植えつけたかった。夏の陣
の論功行賞を終え、配置換えや知行の加増などを済ませると、いよいよ秀吉恩顧の事跡が
あふれる京都を徳川色に塗り替え、徳川=朝廷のイメージを作る戦略にかかります。
新しい市民階級である職人たちに対して、あっ!と言わせ、徳川の権勢の凄みを噂として
一晩のうちに京の町や朝廷に駆け巡らせたいという政治意図。そこで生まれた戦略が鷹が
峯に50件もの職人が移住する芸術村構想ではなかったか。琳派はそんな野心を受けて生
まれたのだと思います。
近代政治家の技術は今日も同じですが、イメージや人気取りやイベントを志向します。家康もポピュリ
ズムの手法を、秀吉の「北野大茶会」や「醍醐の花見」から学んで、実践したわけです。
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ここで棟梁として選ばれたのは、光悦。織豊政権にまみれた狩野派では手垢が付いている。
その点、光悦は実力は一級ながらアマチュア気質で操作しやすく安全、と思われたのでは。
──僕はそう推理しています。
光悦が皇室と関係が深いのを家康に疎まれて、京都の過疎地へ追いやられた、とする説もあるようで
すが、間違っています。疎んじたい人間に広い土地を提供し、扶持まで与えるお人良しな権力者など
いませんから。自分の権勢を間接話法で皇室に伝えて威圧したい。そういう点でも、光悦に利用価値
を見出したはずです。
豊臣、徳川、朝廷の政治力学の間で必死に生き延びる芸術家集団。きらびやかな美の裏にも
リアルな歴史があるのを感じます。
■ニューズレター配信 宝塚市 美術評論家 岩佐 倫太郎
■後記 琳派の美術を論じるつもりが、つい歴史の話になってしまいました。琳派についてはまた改めて。
■お知らせ 大手前学園創立70周年および大手前大学創立50周年記念事業で、市民公開型の講演対談会に関西
グラフィックデザイン界の重鎮、山田崇雄氏の対談相手として出演します。
テーマ;グラフィックデザイン その「発想力」と可能性を探る
第1回 11月28日(土)13:30~15:00 第2回 12月12日(土)13:30~15:00
於 大手前大学さくら夙川キャンパス メディアライブラリーCELL
お申し込みなど詳しくは http://www.otemae.ac.jp/about/activity/70th.html
聴講は無料 1回だけの聴講も可能です。