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狩野派の美術館とも言える二条城だが、隠された徳川の政治的意図は何か①

ユネスコ世界遺産にも登録される京都・二条城。徳川家康は1600年の関が原の戦い

が決着すると、すぐさま築城にかかり、1603年、征夷大将軍の宣下を受けたのと同時に

完成させています。民家数千軒を立ち退かせての新築。よほどこの立地に執心したのだ

な、と思います。京都の中心地で、かつて信長の二条城があった西、秀吉の聚楽第の敷

地の南。両者が直交する所です。徳川家は決して他所から来た権力の簒奪者ではなく、

由緒正しい継承者だと、正当性を諸大名や京都の人々の頭に刷り込もうとする訳です。

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二条城 二の丸御殿の唐門 重文       車寄せと遠侍(とおざむらい) 国宝  

                                 

しかも御所とは驚くほど至近です。僕も何度か、二条城→御所のコースを歩いてみました。

直線だとせいぜい、500メートルくらいなものでしょう。朝廷と並立する権勢であることを視

覚的にも見せ付ける意図ですが、この距離感には更なる深い意味合いがある。そのことは

後に述べるとして、ともかく徳川家はここを舞台に派手なパフォーマンスを見せ付けながら、

朝廷および諸大名の封じ込めをやっていきます。その周到きわまる広報戦略には

驚かされるばかりですが、二条城の絵画の話をまず先にしておきましょう。

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美術的に言うと、二条城は狩野派のミュージアムと言う事も出来ます。障壁画の数は重文

に指定されたものだけでも1016面。天井、杉戸などにもあまねく絵が施されていますから、

さながら狩野派美術の宝石箱です。その領袖だったのは狩野探幽。祖父は桃山画壇の

巨匠、狩野永徳です。参考に祖父の有名な《唐獅子図屏風》を掲げると、ケレン味たっぷり

の絢爛で豪快な画風が見れますね。秀吉の発注ともされますが、外向きの時代、成り上っ

た権力者の驕りに応える、日本の美術史上、パワフルな異彩を放つ桃山の大傑作です。

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 狩野永徳 《唐獅子図屏風》 宮内庁三の丸尚蔵館 右隻:223.6×451.8 

 

さて、二条城の孫の絵のほうに戻ると、探幽の代表作は二の丸御殿・大広間の四

の間の《松鷹図》です。部屋の四周に松と鷹を描いていますが、威厳があり、幽

玄な気品さえ備えた画調は一門のリーダーの作品として申し分なく、若くして既

に天才的な才能がうかがえます。

徳川の絶対的権勢が確立し鎖国に向かう中で、時代の空気を察知し、祖父とは

少し違った美意識で大量の注文を破綻なくこなした探幽。名門の血のなせる業

ともいえるでしょう。

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狩野探幽《松鷹図》部分 二条城二の丸御殿大広間(原画は展示・収蔵館

に収蔵)1626年 重文

 

実は、これらの二の丸御殿の絵が描かれたのは、築城より20年ほど後のこと。

徳川家は秀忠の娘、和子(まさこ)を家康の生前の望みどおり宮中へ輿入れさ

せることに成功し、天皇家外戚となります(1620)。政略結婚ですね。つい

で6年後には、今度は後水尾天皇と和子の二条城行幸を図り、三代将軍家光は

城の増改築や連日の遊興に蕩尽の限りを尽くして、幕府の底知れない財力を誇

示し朝廷を畏怖させます。狩野派の万を越す障壁画の制作もその一環でした。

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さて次回。17世紀のはじめの、築城から和子の入内や後水尾天皇行幸に至る

徳川の歴史をもういちど遡って紐解き、二条城が驚愕すべき朝廷監視装置だっ

たとする僕の仮説を披露します(つづく)。

                  

ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎