この贅を尽くした壮大なイベント装置の一式は、たとえば牛車にせよ、パレードの装束、
楽器など、すべて合わせるととんでもなく膨大な量のはずです。ましてや入内の家具、
衣装類ともなると、ことのほか豪奢を極めたことでしょう。
いったいこれだけのものを誰がどこでどう作ったのか?こんな疑問が浮かんできます。
この時期の江戸ではまだそこまで技術があると思えないし、京都のしもた屋程度では、
小さなアクセサリーくらいしか作れないだろう。婚儀にはまずは牛車が数多く要る。車
輪も轅(ながえ)も最良の材料を一から入手してそろえたい。そこに輿の制作や漆塗り、
金細工、組みひも、布織りなども加わり、もうそれだけでも一流職人のワンセットが要り
そうです。ほかにも、盛儀のための刀剣や牛馬を飾るオーナメント、引き出物などなど。
ちょっと思いつくだけでも広い作業場、大勢の職人、多大な時間が必要に思います。
上段の右、2頭の牛に曳かれるのが秀忠の息女・和子(まさこ)の乗る牛車。葵の紋が見て取れるだろうか。
しかも物量に対応するだけでなく、デザインひとつとっても宮中の年中行事や有職故実
に合致する必要がある。ところが武門の出の徳川家はその辺は得意ではない。しかし、
朝廷に並びかけようかという時に、「所詮は武家のがさつ者よ」、などと思われ恥をかく
ようでは困る。
徳川家は考えたはずです。いったい誰に任せれば、多くの家具・工芸分野にまたがる
職人をコントロールして工程を調整し、しっかり品質管理し、朝廷のしきたりに適合する
嫁入道具を作れるのか。そのとき白羽の矢を立てた人物とは、朝廷の諸行事に通じて、
工芸デザイン全般に目が利き、かつ職人の棟梁として重しの効く本阿弥光悦以外にな
かった、と考えるのはどうでしょう。
●
もうここまで書けば皆様お見通しですね。光悦村とは和子入内の嫁入道具とパレードの
用品の一切を作るため、家康が土地を支給したファクトリーであったと。そしてマルチプ
ルな天才、光悦はその一大プロジェクトの総合プロデューサーであったと。そう考えると
すべての事が腑に落ちてきます。なぜ、いっせいに移住したのか。なぜ、光悦に扶持ま
で与えたのか。扶持は全体の組織化と監修の対価、つまりプロデュース・フィーでしょう。
後水尾天皇1596-1680 中宮和子1607-1678 二人の間に生まれた女一宮がのち女帝、明正天皇となる
実は朝廷への入内は既に1614年に家康から要請したものですが、天皇の抵抗に会っ
た。またその間に夏の陣や後陽成院の死去、家康自身の急死などもあって、実現まで
6年もかかっています。当初の家康の思惑では、2、3年くらいではなかったか。として逆
算すると、工場敷地を確保し(光悦村は8~9万坪)、材料を集め、職人をセットで定住さ
せ、わけをよく知った棟梁のもと、工程管理しながら集中生産を急がないと間に合わない。
しかも徳川家としては入内の応諾がまだもらえないため、嫁入り道具一式の製作を目立
たせたくなかった。仮にも洛中などで発注したら、たちまち人目に触れ、口さがない京童
(きょうわらべ)の格好の話題にされるのは必至。
●
とまあ以上のような諸要件をすべて満たすソリューションとして、歴史の必然から産み落
とされたのが鷹が峯の光悦村だった――というのが僕の推論です。琳派の開祖=光悦
は、家康の恩顧で得た土地で晩年は自由に書画を楽しみ、土をひねりして悠々の人生を
過ごしました、などと言う話とは、だいぶ違うストーリーが見えてきました。ちなみに鷹が峯
の土地は、光悦没後、幕府に返上されます(この項、完)。
■参考文献;
・「新発見 洛中洛外図屏風」 狩野博幸 青幻舎刊 (大江戸カルチャーブックスのシリーズ)
・「wikipedia」の当該項目ほか
ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎