■【日伊国交流樹立150周年記念 カラヴァッジョ展】その④国立西洋美術館■
「カラヴァッジョさん、さっきの話に戻しますけど、あなたの劇的なまでの明暗法を
継いだのがベラスケス、そのベラスケスをマネが学んだ。なのであなたの最後の
弟子がマネ。そこまでは分かります。そのマネがルネサンスの息の根を止めた、
と言うのは?」
「ヌード画を思い出してもらいたい。近世の最初のヌードはボッティチェルリの《ヴィ
ーナスの誕生》だ。それ以来、裸婦像は西洋では神話の女神という約束事の下で
なら描いていいこととして、400年も続くんだ。そしてマネになって初めて、女神でも
ない普通の女性のヌードが登場した」
「《草上の昼食》とか、《オランピア》ですね。オランピアは娼婦ですね。女神の対極
かも知れない。それでみんな怒ったんでしたよね」
「自分たちが使っていた建前を暴かれたから恥辱を感じたんだな。人はそういう時
に怒るもんなんだ。ともかく、マネはルネサンス以来の、ヌードは女神に限るという
鉄則を毀した。マネが毀したのはもうひとつある。遠近法だ。ルネサンスが発明し
てその後、金科玉条のごと守られていた一点透視図法をやめてしまったんだ。それ
には日本の浮世絵の影響も大きいな」
●
「そうなんですね」
「どうでもいいけど、その相槌の打ち方はやめてくれんか」
「気に障ったらすみません。それであなたの最期について聞きたいんですが。ローマ
郊外の港町のポルト・エルコレで死にました」
「まとめに入ってるのか(笑)」
「カラヴァッジョさんは貧しい港町の病院で最期を迎えました。看取る家族も
なく、所持品もなく。それもまだ若い38歳でしたね。後悔はなかったですか」
「行き倒れになったところを病院に担ぎ込まれた。今も覚えているよ。小さい
粗末なベッドでな。シーツも擦り切れてた。教皇の恩赦を求めローマに行くつ
もりが荷物もなくして、恩赦を得るために肌身離さず持っていた贈り物にする
絵も失って、熱病にかかりベッドの上でブルブル震えていたんだ。後悔はなか
ったかって?大ありだよ。若い日に喧嘩で人を殺めた。そして逃亡者となって
官憲や仇の目を避けて住む流れ者の人生だった。そのくせ行く先々でトラブル
を起こした。いくら絵の腕があってほめそやされようと、一日たりと心の休ま
るときはなかった。それでも惧れと贖罪の意識で、逃亡先でも絵筆を動かした。
俺の人生、何だったんだと考えながらな」
「そして最後の最後は、我とわが運命を呪って、歯噛みして死んで行った訳ですね?」
「大いに違うな!」
「え?!」
「普通ならあんたの思う通りだろうよ。殺人者のお尋ね者の末路は、それくらいが丁度
だと、多くの人も考える。だがな、事実は全く違うんだ」
「じゃあ、どうだったんです?司祭を呼んで告解でもしたんですか。人殺しを悔いて」
「確かに臨終の枕辺には司祭も来た。しかし俺にはそんな儀式は無くてよかったんだ」
「それはまたなぜ?」
《ロレートの聖母》 1604-06年頃 260×150cm サンタゴスティーノ教会 ローマ
※この画像は参考図像。作品は今回の「カラヴァッジョ展」に出品されていません。ご注意ください。
「ひとは死ぬ前に生涯の映像をすべて思い出すというがな、俺の場合は、自分の作品
一つ一つが浮かんで来たんだ。まず最初に浮かんできたのは《聖パウロの回心》だ。
知ってるな?キリストを弾圧する側のパウロが、イエスの幻声を聴き、その瞬間、回心
が起こって自分でも驚いて落馬した。背中を地面につけて、両手を挙げたあの絵だよ。
俺もまさにその心境だった。いまわのベッドの上で、赦しを求めて両手を差し出していた。
次に目の前に《ロレートの聖母》が浮かんだんだ。マリア様が頭の上には光輪を輝かし、
幼子イエスを抱いて門口に顕現された例の図柄だ。貧しい巡礼は足の裏を泥で汚し、
膝をついて杖にすがり、ありえない奇蹟のあまりのありがたさに手を合わせている・・。
自分で描いておきながら、この巡礼は自分のことだと初めて気づいたよ」(つづく)。
カラヴァッジョ展は東京・上野公園の国立西洋美術館で6月12日(日)まで
ニューズレター配信 岩佐倫太郎 美術評論家
■後記 今回で終わるつもりが、次回までに。あと1回、懲りずにお付き合いください。