カラヴァッジョさん、あなたの死の瞬間に起きた出来事を話して下さい。

「その二つの絵、つまりパウロやロレートの聖母の話を聞くと、カラヴァッジョさん、

あなたは聖書の場面からイメージの引き出し方が鮮やかですね。とくに幻視の

場面を偏愛してませんか」

 

「たまにはマシな事もしゃべるんだな。俺の若い頃からの愛読書を知ってるかな?

ダンテの《神曲》なんだ。永遠の恋人、ベアトリーチェを求めて地獄煉獄天国を彷

徨する一大ファンタジー宗教叙事詩だよ。俺のイメージの源泉なんだがね、美術

史家は気づかないのかね。自分の絵の能力は、絵画以前に文学で養われた。だ

から聖書の場面を剽窃して絵にするなんて朝飯前なんだよ」

 

「えっ、剽窃ですか?」

 

「まさか俺が神を120パーセント信じて、信仰の証に絵を描いてるとか思っちゃい

ないだろうな。そんなのはフラ・アンジェリコで終わってるんだ。ダ・ヴィンチもミケ

ランジェロ・ブオナローティも神をあがめてなどいない。神や聖書は作品の題材に

過ぎん、おのれの腕を見せつけるための。フㇷ、わかるかな?」

 

「なるほど・・・」

                            

「それはそうと、病室での最後の話を聞かれたたんだったな」

「はい、そこをぜひ」

「自分の絵を思い出しつつ悔悟の時を過ごす俺のもとに、司祭がやってきたんだ。

熱病にうなされ、寒さで震えている俺のところにな。この男はもう長くない、と誰か

が村の司祭を呼んでくれたんだろう。その姿を見て、ああ、いよいよ俺も一巻の

終わりだな、人はそうやって最期を迎えるんだな、そう思ったさ。司祭はまだ若か

った。無精ひげを生やして、髪は多少伸びてたかな。どういうわけか裸足なんだ。

ろうそくも香油も持っていない。そいつが音もなく俺のベッドの足元に立った」

「サンタ・クローチェ同信会の牧師による終末の儀式を受けたと、されてますが」

「フム、その時、俺の名を呼ばわる声がした。『ミケランジェロ!』とな。誰が発し

たのか?どこか体内の内奥か天の高みから聞こえて来たんだ。もう一度、ミケラ

ンジェロ、と声があった。そして声は『いとしわが子よ』、と私のことを呼びかけた。

次にこう言った。『その汚辱にまみれた怒りと恐れの服を脱ぎなさい』、と。続けて

『そなたの悲しみは、私が引き受けよう』と言った」

「・・・・」

「目の前の地元の僧侶の目を見たら、奴の目は何か秋の静かな入り江のように

澄んでるんだ。唇を動かして言葉を発しはしなかったが、その瞳の奥に、千億倍

の悲しみをたたえているように感じた。もう意識が波のように遠のいたり、引き戻

したりを繰り返し始めていた。その時だ、『汝のすべてが赦された』、との声を若い

司祭が発したように思った。と同時にふっとその姿が消えた」

「・・・・」

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「もう、教皇の恩赦など、どうでもよかった。ああ、なぜもっと早く気づかなかった

んだ!神はいつも自分と背中合わせにいてくださったのに。なぜ、もっと早く振り

返ることをしなかったんだ。うまい絵を描きたい、人を驚かせたい、そんなことに

ばっかり心を奪われて、肝心なことに気づいていなかったんだよ。俺は激しく後

悔した。み心に背いてきたことを詫びた。ただ許しを乞うた。と同時にせき止めら

れない感情がこみ上げて、あふれ出て来た。これ以上ないありがたさに身が震え、

俺は涙を流してベッドにいた。その時の俺は《法悦のマグダラのマリア》をこれま

でになくリアルに幻視していた。自身がすでにマリアだった。いちばん罪多き人生

を歩んだかもしれないマグラダのマリアの前に、イエスは復活の姿を真っ先に顕

された。それを恩寵と言わずして何と言おう。そしてイエスは今また自分にも、死

に行く最後の瞬間に、復活の希望を伝えにお姿を顕わされ・・」

                     

美術館の一室。ふと気づくと、先ほどまで水中にいるように音がなかった世界に、

観客のざわめきや靴音が戻ってきていました。ソファには僕のほかは誰もいませ

んでしたが、隣りの座面を手で触れると、そこだけ体温のぬくもりが残っていたの

でした(カラヴァッジョ、完)。

 

ニューズレター配信  岩佐倫太郎  美術評論家

■後記 

最後までお付き合いいだきありがとうございます。これまで美術展や絵の話をそれなりに書いてきましたが、

賢しげな知識や文体をこね回して、マンネリになっていないか。本当に読む人に伝わって役に立ってるのか。

そんな反省もあって、今回は150回を迎えたのを機会に、エンターテインメント形式で書いてみました。思

った以上に会話文は長くなってしまいますね。全5回、最長記録ですが、面白くストレス少なく読んでいた

だいたなら大変幸いです。