浮世絵とセザンヌ、マティスをつなぐ糸が見えて来た!

ゴッホは広重を模写するまでに浮世絵を崇拝し、その影響を受けて自分の暗い画風を一挙に官能的な色彩の世界に弾けさせました。さてもう一人、北斎の浮世絵を研究し、その創作原理を密かに取り込み、自分の画風を確立した画家がいます。それがセザンヌです。ゴッホのように浮世絵を手放しで礼賛する事はしませんでしたし、むしろその影響を見せまいと隠しながら、実は浮世絵の新しさ、つまりルネサンス以来の西洋絵画の理論を越えている事をほかの誰よりもショックに受け止めた人です。

例えば下の画像を見比べて頂くと、まず構図面でセザンヌ北斎の浮世絵を剽窃といってもいいくらい借用しています。また遠近法の面でも、それまで西洋画ではありえなかった装飾的な前景の松を北斎の波と同様、プロセニアム(芝居のかまち)のように見たてています。まるで広角レンズで写真を撮った時のように、主題を逆に小さくデフォルメした超遠近法を成立させるためです。ちなみにサント・ヴィクトワール山は36点の作品があり、これも富嶽三十六景に倣ったのではないかと言われています。まあ、この辺のことは割と容易に理解して頂ける話ではあります。


北斎《神奈川沖浪裏》1831-33 セザンヌサントヴィクトワール山と大きな松の木》1887 

ただ、セザンヌの浮世絵理解の深さには、まだその先があります。彼が浮世絵からさらに気づいた原理は、「いい絵は色数が少ない」という黄金律です。これは僕が思う近代絵画の仮説ですが、人間の眼はあまり多くの色に同時に対応できない。むしろ少ない色が一定の分量感を持って繰り返される場合にこそ、視覚の脳細胞が興奮して高評価を与える、と考えています(ファッションの法則と似ているかもしれません)。人間の脳も近現代においては大量に情報を扱うので、個々の情報処理には必然として省エネを求めるのではないでしょうか。それゆえに、絵にも省略や輪郭線やシンボル化があった方がラクなんです。その点、浮世絵は版元も安いコストで大量に刷って儲からなければいけませんので、経済的な理由で印刷の版木の数もせいぜい5点とか多くて10点。いきおい色数も制約されます。しかも混色やグラデーションが基本的に無い(一文字ぼかしのような例外的手法もありますが)。ということは画風も明快で脳に心地よく響き、必然的に新しい時代のニーズや嗜好に合う訳です。

 

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マティス《金魚と彫刻》《ジャズ・シリーズ――イカルス》《ロザリオ礼拝堂ステンドグラス》

 

《サント・ヴィクトワール山》の色を見てみても、緑と茶褐色とブルー。まるで唐三彩の焼き物のような色数しか無いですね。セザンヌのカラリスト(色遣いの名手)ぶりの本質は、多彩な色を使うのでなく色の抑制と反復にあります。マティスセザンヌの隠された原理を鋭敏に発見し、フォービスムの時代を経て1910年以降の自らの進化の推進力とします。上のマティスの《金魚》の絵もそうですが、油絵は浮世絵の版木で刷ったかのように色数が制約され、同じ色が気持ちよく反復され、ルネサンス以来の伝統絵画が好きだったグラデーションによる立体感なども巧みに排除されています。この原理は、晩年に手掛けた「色紙」による切り絵のシリーズにも、南仏ヴァンスのロザリオ礼拝堂のステンドグラスにも同様に貫かれているのを、読者の皆様は感知して頂けるでしょうか。

近代絵画は色やデッサンが自然の説明役であることを止めて、人間の脳の主観に従って世界の再編成を試みる歩みでした。人間と芸術の関係の大きな分水嶺!浮世絵の影響は、色と遠近感において西洋絵画の原理を破壊し再創造を進め、ゴッホセザンヌからマティスの中に音を立てて流れています。

 

美術評論家/美術ソムリエ 岩佐倫太郎