■琳派を生んだのも育てたのも実は徳川家康だ!誰も言わない美術史。その⑤■

 

僕が、「鷹峯光悦村は芸術村などでは無くて、徳川家康の孫娘、和子(まさこ)の皇室への嫁入り道具を製造する秘密工場だった」と新説を発表したのは確か4年くらい前でした。下の画像は光悦寺に残る光悦町の古地図です。最近発見したものですが、特別な資料ではなく公知のもので、僕が気づくのが遅かっただけの事。配置図はそのままに、重要な人物だけは名前を太字に打ち変えて若干加工しました。「へえ、鷹峯の光悦村ってこんなのだったのか」と妙な感嘆をしながら、この地図を見ています。上が北、下が南で京都市中になります。このような地図をまえに、僕の自説に対する確信は深まるばかりです。

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と言うのも、この敷地図って、とてもヘンで新しい郊外団地のような地割です。しかもズドンと南北に、恐らく千本通につながる街路があるわけですが、随分ぶっきら棒だと思いませんか。芸術家たちがコロニーをつくるなら、本来ならもっと紆余曲折のランドスケープを計画して、眺望に配慮があってもおかしくない。しかもこの図には現れませんが、等高線を国土地理院のそれで見ると、京都の僻地ながら高低差がほぼない平坦地のようです。別荘気分で住んでみて面白いでしょうか。こんな村を一斉に作るなんて、とても伊達や酔興の結果とは思えない。仮に土地はタダだったとしても、家を建てるお金が要りますからね。皆一斉に資金を出せたんでしょうか。

 

その疑問はいったん置いておいて、それでは「芸術村」の代表的な人物の住居を見て行きましょう。「通り町すじ」とある道路の右には、上から一つ置きに、光悦の弟「宗知」、養子の「光嵯」を住まわせています。孫の光甫の家だけは左下隅ですが、ともかく直近の家族で固めています。何か僕は他人を信用しない、お金なのか情報なのか、ともかく非常な用心深さのようなものが隠れているような気もします。そして目を見張るのは、やはり光悦邸の敷地の大きさです。村の中の中心地にあってひときわ突出しています。なんと間口は60間とありました。1間1.8mとして、優に間口100メートル超の屋敷と言うことになります。風流な隠遁生活を楽しむのに、もてあます大きさではありませんか。

 

また、「通り町すじ」の光悦邸の対面を見てください。尾形宗伯が家を構えています。この人は、尾形光琳・乾山兄弟のお祖父さん。宗伯は和子やその母、お江(2代将軍秀忠の継室、浅井3姉妹の末っ子)に浅井藩の縁で贔屓にされて、大いに蓄財し、その結果、孫に40歳近くまで遊蕩三昧の生活をさせることになり、光琳という天才を生んだことは先に書いたとおりです。

 

さて、その隣を見て頂きましょう。「茶屋四郎次郎」。徳川家の信任が厚い商人ではありますが、代々世襲の名前でこの時は3代目。果たして光悦らとグループを作るような文化人であったとは思えない。貿易や生糸販売で成功した御用商人がなぜ呉服の雁金屋の宗伯と軒を並べ、芸術肌の光悦と向かい合わせて居を構えてているのか。この図を見ることで、僕の想像は一つの物語に帰着しました。長くなるので次回に(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家