誰も言わない琳派美術史その⑧。琳派は、家康の孫娘の入内という特需経済から生まれた

ローマ法王庁ミケランジェロを重用して、美術の宝石箱とも呼べるシスティナ礼拝堂を遺したように、またスペイン王室がベラスケスらの画家を保護して、後のプラド美術館のコレクションが生まれたように、信長、秀吉、家康ら日本の権力者も、文化のパトロンとして日本美の財産をつくりました。「美」というものは、絶大な権力に庇護されたときにだけ、妖艶な大輪の花を咲かせる──そんな気むずかしい美女のような性格を持っているようです。信長や秀吉の時代、彼らは天下人として君臨する象徴として、安土城、桃山城、聚楽第などを新築します。普請道楽と言われます。その時、巨大な建築の広大な壁面を飾るのは「狩野派」の金碧屏風や襖絵です。例えば下の「檜図」のような、居並ぶ大名たちを睥睨し平伏させる、いわば威圧の舞台装置として勇壮で威厳に満ちた狩野派の絵が、必然として好まれたわけです。僕は日本人がワビサビとは対極の、陽気で外向きなエネルギーに満ちた、今なら「ケバい!」と退けられそうな美意識の時代を持っていたのをとても面白く感じ、高く評価しています。

f:id:iwasarintaro:20190406223729j:plain

さて、織豊政権が「狩野派」を育てたのなら、三英傑の一人、家康の時代は、ようやく訪れた平和の時代と豊かな財力をバックに、「琳派」という新しい日本美の系譜を生みだします。その契機になるのは、家康の孫娘、和子(まさこ)の元和6年(1620年)の宮中への入内です。天下を手中に収めた家康にしてみれば、徳川の血が皇室とつながるのは、最後で最大の願望だったでしょう。何年も前に申し入れていた婚儀が、家康の死後にようやくかないました。近年発見された六曲一双の「洛中洛外図屏風」は、その家康の孫の壮大な婚礼の盛儀のパレードの模様が見て取れる唯一の貴重な資料です。長持ちを持った先頭が早くも御所の南門をくぐっているのに、二条城からもまだまだ従者の列が続々と出発している・・。そんな光景が実に達者な筆致で精細に描かれています。想像を絶する徳川家の財力の誇示には、物見高い京雀でさえもさぞかし驚愕し、秀吉恩顧の西国大名も打ちのめされ、反乱の機運もあえなく摘み取られたのではないでしょうか。

f:id:iwasarintaro:20190406224236p:plain

ところで、このときの膨大な特需は、美術だけでなく、輿などの乗り物、食器などの生活雑貨や着物などにまで及んだはずです。日本における初めてのトータルなライフスタイル・デザインの記念すべき誕生です。もし、光悦村が世に言われるように芸術家たちの単なる隠遁村であったなら(それにしては8万坪とは異常な広さですが)、ここまで美術史上の大きな勢力になりえなかったことでしょう。巨大な政治目的を背景に、大量のお金が動いたからこそ、55軒もの職人たちの集団移住も可能となり、「琳派」と言う新しい美の源流が流れ始めた訳です。これが次の時代には富裕な町人層にも大きな影響を与え、江戸時代を脈々と貫流します。それどころか、琳派は現代のわれわれの美意識をも、今なお規定しています。出自の独自性から生まれた琳派の特質を次回語って、このシリーズを終えたいと思います。

 

 岩佐倫太郎 美術評論家  

 

615日(土)東京駅前の新丸ビル京都大学東京オフィス」での第2回講演会。

 

マティスピカソの中に北斎を見た」~ここが、西洋美術を理解する勘どころ~

 

15:00~17:00 於;東京駅前新丸ビル10F 京都大学・東京オフィス 50人限定時 

お申込み方法 このメールにお名前と人数をご返信ください。

費用 4000円(税込み) お申し込み頂いたのち、■口座;三菱UFJ銀行 玉川支店 1499165 イワサ リンタロウまでお振込みください。(ご予約はお振込みを持って自動的に確定致します)