■誰も言わない琳派美術史その⑨。琳派によって絵画はデザインとなり、生活用具となった■

文明史的に言うと、琳派芸術は近世から近・現代へとても重要な美術上の橋渡しをしています。狩野派織豊政権の居城を飾ったり、徳川政権の二条城を装飾したのは事実です。しかしこの時代、絵画は潤沢な資金を持った権力者だけが発注する贅沢な注文生産品でした。狩野派の勇壮華麗な絵のタッチは描く側に任されるとしても、画題そのものは相当発注者の意向が入った、一品きりのオーダーメイドでなされた訳です。

 

ところが琳派になりますと、いささか事情が違ってくる。ちなみに僕の自説では、光悦が家康の孫娘の入内のための結婚調度を請け負ったときの特需経済が琳派の始まり。その結婚調度品というのは、屏風などの絵画よりも食器、家具など生活用品や着物類など実際的なものが中心になっていたのではないかと思われます。そうすると例えば、碗や皿を作る場合でも、全くの単品制作ではありえず、何客分かのセットとして作られるのが前提でしょう。数量生産をしないといけない。しかも調度品全体を見たばあいも、一定のセンスやグレード感で統一されていることが望ましいと考えるはずです。その上、三つ葉葵の御紋など、今日でいうロゴマークを入れるとなれば、全製品のつくりかたは既に個々の工人の手仕事で完結するのでなく、集団的なマニュファクチャリングに移らざるを得ません(それゆえ鷹峯の光悦村が必要だったんです)。

 

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和子入内の様子を描く屏風絵が発見された

このような生産体制になじむ絵画とは何か?この時、絵画は従来の絵画のままで留まることが出来ず、「デザイン」という複製の効く汎用性を持った存在に、踏み出さざるを得なかったと僕は考えます。この辺がデザインが発生する重要なポイントです。琳派というと狩野派などの絵画集団と横並びで比較されたりしがちですが、絵画の専門集団と捉えない方がいい。むしろ、後年の大衆的な文化の時代を先取りし、工業化・複製化のニーズに「デザイン」で対応し、生活調度品や着物などライフスタイル全般を供給した制作集団だと考えた方がふさわしいでしょう。棟梁の光悦にしても日本で最初のアート・ディレクターとして、調度の全デザインを統括し、その上、仕入れから制作、納品管理まで統括するプロデューサーという、時代が求める新しい職能を遂行した人だと言えます。

 

ただし、この17世紀の初めの頃はまだ、デザインと言っても発注者は徳川将軍や皇室、有力寺社などの占有物だったでしょう。それがやがて元禄時代など市民階級が勃興する時代になって、新しい富裕市民層も生まれてまいります。光悦に続いて、琳派を中興した尾形光琳呉服商の生まれであったことも、天の配剤と言っていいのか、実に運命的でありました。彼が呉服商の息子でなければ、恐らく光悦の琳派は継承されることも無く途切れ、したがって抱一の江戸琳派も生まれることは無かったでしょう。琳派芸術にとって、切り離せない呉服と琳派の特性の関係性。長くなるので、次回に続けさせて頂きます(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家