誰も言わない琳派美術史その⑩。琳派の本質は、複製と転用の効くデザイン力なのだ

閑話休題】まだ桜が咲き残る4月なかば、僕は何十年ぶりかで鷹峯の光悦寺を訪ねました。目的は光悦寺はどのあたりにあったのか曖昧な記憶を正したいのと、今も当時のままと思われる光悦村の大通りを実見し、実際に千本通につながっているのを確認したかったので。

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何人かの方からもご質問をいただいきましたが、まず光悦寺のロケーションは北山通りのまだ北なので京都の北のはずれ、しかも西端です。また光悦寺は本阿弥光悦の私邸跡にそのまま出来たものではありません。そこから少し西に寄った本阿弥家の「いはい所」(図の左、緑色)を整備して寺となっています。光悦寺でも確かめたら、お坊さんからやはり同じことを言われました。また現在の町割りは当時と変わっていないそうなので、道路も昔のままでしょう。この日僕は、境内にある光悦の墓に参り、今日の日本のデザインの開祖に手を合わせてきました。秋の紅葉で有名な光悦寺ですが、眼の前の山が花札の坊主のように丸くて、比叡山や遠く東山連峰を見遥かす眺望のいいお寺でした。

 

さて僕はついで、古地図では「通り町すじ」と表記されている南北の大通りに向かいました。光悦や一族の屋敷が並んでいた通りです。南に向かって僅かに下る道を歩き、光悦の家はこのあたりだったかと、それと思しきあたりの現在の風景を写真に撮りました(上右)。帰り道、道路を確かめようと、千本通を北上してきたバスに乗ったら、バスはこのあたりをループして、また千本通に戻っていきました。なので昔の「通り町すじ」はそのまま間違いなく二条城に続いているのを確認しました。そうなると逆に光悦村の立地は、千本通の延長上にあったから選ばれたと考えることもできませんか。光悦村が実は和子入内の結婚調度品を作る工場で、納品は千本通を最短のハイウェイにしてその都度、京都所司代の与力や同心に警護されつつ二条城に入る。入口でも二条城に隣接する京都所司代の屋敷での検品がある、そんな推測が俄然確たるものに感じられてきたのです。

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cid:image003.jpg@01D50E2B.E6D15A00cid:image004.jpg@01D50E2B.E6D15A00余談が多くて、琳派芸術の本質を語るのが遅くなりました。上の2点の尾形光琳による作品をご覧ください。左は六曲一双の《八橋図屏風》の右隻、メトロポリタン美術館蔵。日本にあれば国宝でしょう。右は東京国立博物館の持つ八橋蒔絵螺鈿硯箱》(やつはしまきえらでんすずりばこ=国宝)。作った本人がどのように意識していたかは分かりませんが、「絵画からデザインへ」、歴史的に見ればジャイアント・ステップがここで踏み出されているのを見て取れます。橋や植物など具象的なものの図案化が始まっているのです。しかも図案化されたがゆえに、デザインのアイデアは自在に拡大縮小して、右のような生活雑器にも転用・共用されることになります。工業的なマニュファクチャリングの萌芽をここに認めることができます。さらに言うならば、光悦や俵屋宗達などから連綿と続いているグラフィックな空間処理(隙間が多い)は、現代のデザイン感覚からも大いに崇敬されていますが、実はシンボル化した文様を、大きさや方向性にかかわらず矛盾なく処理して格納するための必然でもあったのです(つづく)。

 

 

岩佐倫太郎 美術評論家