【誰も言わない琳派美術史その⑬】■琳派というコンセプトを作ったのは、酒井抱一。世が世なら姫路城のお殿さまだったかも知れない江戸琳派の巨匠■

前回、光琳は日本美術史におけるラファエロだと、大見栄な説を展開しました。その光琳を継承する人は、およそ百年後に登場します。酒井抱一1761-1829)です。抱一は姫路藩主、酒井忠以(ただざね)の弟として、お江戸の、いまの東京駅の前あたりにあった藩邸に生まれ育ちました。江戸の天明期の開放的な空気の中で、文人でもあった兄のサロンに出入りして多感な青年期を過ごし、絵画やお能、茶道のほか俳諧狂歌にも親しみ、遊里にも出入りした様です。藩主となった兄には子供がなく、万一のばあいには兄の養子となって跡を継ぐことが予定された身分でしたが、ありがちな事ではありますが、兄に子供ができる。お家騒動の火種になるのを避けたのか、主家への遠慮なのか、抱一は最終的には武門を捨てて出家し、吉原の花魁をもらい受けて奥さんにして、下谷根岸のあたりに隠棲する市井の絵描きとなります。世の栄達を捨てた抱一の画技は、それ故か精細で無心の自然愛に満ち、得も言われぬ気品と色遣いの巧みがあって、とても旦那芸などとは言えない超一級の域に至ります。それだけでなく、文化のプロデューサーとして、豊かな教養と眼力で光琳を発見し私淑し、光琳百年忌(文化12=1815)には、法要や出版、展覧会などの顕彰事業を推進します。

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光琳による 《風神雷神図屏風》東京国立美術館

f:id:iwasarintaro:20190831135311p:plain 抱一による模写 《風神雷神図屏風出光美術館

 

中でも、「光琳百図」を図録としてまとめ、また「緒方流略印譜」(おがたりゅうりゃくいんぷ)を刊行して、今日の「琳派」といわれる日本の美を系譜化してまとめ上げたのは、きわめて重要な日本美術史への貢献と言うべきでしょう。ちなみに「略印譜」とは、画家の印章と署名とを集めて系列化し、これにコメントを加えたもの。近代美術史上でも特異な、百年間隔で現れた三つの山——つまり宗達・光悦の時代、光琳・乾山の時代、そして抱一の時代——を、時空の隔たりにも拘らずひとつの山脈として発見し、自身をも敬慕する光悦、光琳に連なる作家として位置付けた訳です。抱一無くして琳派の誕生はあり得ませんでした。ただし、「琳派」というネーミング自体は抱一が作ったものではなく、「緒方(尾形)流」が明治以降「光琳派」と改められ、さらに近年つづめた言い方の「琳派」となって、定着しています。 

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当初、光琳の《風神雷神図屏風》の裏面に描かれた抱一の《夏秋草図屏風》(国宝・東京国立博物館

ところで三つの山には共通する特徴的なキー・コンテンツがあって、《風神雷神図》などその最たる事例。宗達のそれが、リスペクトの証しか暗合のように光琳、抱一によって模写されて受け継がれていきます(上の画像)。展覧会などで皆様も見ておられることでしょうね。

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 鈴木基一《夏秋渓流図》根津美術館 

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 速水御舟《銘樹散椿》山種美術館

さて、琳派はさらに後世に影響を与えます。抱一の直弟子は、鈴木基一。近代グラフィックの開祖かも知れません。大正、昭和の速水御舟らの日本画の感性をも貫流し、戦後のグラフィック・デザイナー、田中一光らにまでも延々と影響を及ぼしています。というか、我々の感性はいまだ琳派と地続きで、同じ美意識の住人でもあるとも言えるでしょう。それゆえ、僕は「東京の名画散歩」(舵社)を数年前に上梓した時、副題を「琳派がわかれば絵画は分かる」としたのでした(琳派の項、完)。

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ 

長期にわたる拙文を、我慢強くお読み頂いた皆さまにお礼申し上げます。13回でようやく終止符を打つことができました。まだ、家康と光悦の関係の真相とか、そこに京都所司代板倉勝重がどう絡んだのかとか、家康の刀剣コレクションと美意識など語りたいことはいろいろありますが、しつこいので(笑)、それらはまたの機会に。