古墳を巡り、継体天皇の謎を考える  ③あわや皇統断絶の危機

■古墳を巡り、継体天皇の謎を考える③あわや皇統断絶の危機■

 

前回と話が一部重複して恐縮だが、世界遺産の百舌鳥・古市古墳群の、それぞれのエリアで最大は、仁徳天皇陵応神天皇陵。大きいだけでなく古墳の姿の美しさでも12を争うだろう。さあそれでは一体どちらが親でどちらが子なのか。歴史好きの人には難なくわかるかもしれない。答えは応神天皇15代、16天皇が仁徳である。ということは、古墳は子供の方が大きいと言う訳ですね。

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さて上の系図にもあるように、皇統は応神から仁徳へ、そして21代雄略などを経て、25代武烈に至る。しかし、武烈は若死にして跡継ぎがいなかったため、ここで危うく皇統は断絶しそうになる。

 

日本書紀』には、「男女無くして継嗣絶ゆべし」、『古事記』にも「日続(ひつぎ)知らすべき王無かりき」と記されている。この時誰が考えたのか離れ業があって、恐らく大和の大伴氏や物部氏が協議したのだろう、なんと後継者探しはもう一度5代遡って、応神に戻る!僕が応神天皇陵を見たかったのはこのことが理由だ。応神が分岐点で今日の皇室に直接つながる。応神の長子は先に書いたように仁徳だが、弟に稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのおうじ)という男がいて、その皇子を祖として4代下がったところに継体天皇がいる。他にも適格者、有資格者はいたと思われるが、なぜか福井の辺境にいた男が歴史の表舞台に登場し、26天皇として即位することになる。日本書紀の記録では507年の事である。この男、生まれは今の滋賀の高島町。父が早く亡くなり母の里の今の福井県丸岡町で育つ。それにしても、大和あたりで後継者が出ればよさそうなのが、福井の辺境に求めたのはなぜだろう(つづく)。

 

美術評論家/美術ソムリエ 岩佐倫太郎