昨年の2015年は琳派400年にあたるので、全国の美術館が呼応しあって同一テーマで
収蔵品などを公開しました。僕も東京では根津美術館の光琳の《杜若図》や《紅白梅図》
(熱海MOA美術館所蔵)の国宝を見たのを皮切りに、箱根の岡田美術館では宗達、光琳
の優品を堪能し(※)、夏は諏訪のサンリツ服部美術館で念願の光悦の国宝の白楽茶碗、
銘《不二山》を見ることができ、秋の京都では国立博物館で久々に宗達・光琳・抱一の
《風神雷神図》の3点が一堂に会したのと再会しました。粒ぞろいだったし、眼福な1年
でしたね。話はちょっと飛躍しますが、今度の2020年の東京五輪でも、オリンピック憲章
にのっとって、ぜひこのような文化プログラムを展開し、日本の美意識を発信すべきです。
尾形光琳 雪松群禽図屏風(せっしょうぐんきんずびょうぶ) 江戸時代 岡田美術館 (箱根)
それはそうと、琳派の起点とされる光悦村のことです。いったい光悦村とは何だったのか?
はじめ僕の理解は、大坂夏の陣が終わって平和の時代のパトロンとして家康が芸術村を
作った、という単純なものでした。家康=フィレンツェのメディチ家のような見方ですね。多く
の方もそういう理解でしょう。記録にも「光悦が洛中に飽きて辺土への移住を希望した」、
それを家康が聞き入れ、領地を鷹が峯に拝領させ、扶持も与えて待遇とした、とあります。
なかなかの美談であり、徳政のイメージですが、やにわには信じがたい。苛烈なリアリスト
の家康にそんなメセナ精神などはまったく有るまい、と思い直し最初の考えを捨てました。
それに職人仲間だって、洛中にいてこそ仕事を受けたり御用聞きが出来るのではないか。
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で、次に考えたのは、芸術村は新政権の人気取りの広告塔であると言う視点でした。家康
も秀吉の北野の大茶会や醍醐の花見のやり方を見ならって、ポピュリズム即ち人気取りの
広報戦略として、今日の博覧会のようなつもりで鷹が峯の光悦村を開かせたのではないか。
それによって朝廷や公家や町衆に、今や徳川へ世が変わったのだとマインドセットを切り替
えさせ、秀吉恩顧の西国大名たちをも財力でひれ伏させ、お家再興などと言うくすぶる野心
を未然に防ぐ、そんな魂胆かな、と思い至りました。
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たしかに鷹が峯と言う土地は、秀吉がめぐらした「お土居」といわれる京都市中を囲う塀から
まだ北に外れた僻地です。安いコストでイベントによる政権のプロパガンダ!一応納得性が
あります。僕もそう書きましたし、半分は当たっているでしょう。しかし何かリアリティを欠いて
いる、というか身体性に欠けている気がする。歴史の歯車はもっと重い欲望のようなものでし
か廻らないのだ、と自説ながら疑義を呈した。その後、二条城を調べているうちに、それまで
に思いもよらなかった考えが天啓のように僕の脳裏に飛来したのです。それは何か。あと2
回お付合いください(つづく)。
(※)琳派400年記念 箱根で琳派 大公開 第二部 開催中 岡田美術館 2016年4月3日(日)まで
ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎