マネの《フォーリー・ベルジェールのバー》の謎と、浮世絵が果たした役割②

浮世絵と印象派の話をしているのに、唐突かもしれませんが、下の画像はルネサンスの画僧、フラ・アンジェリコの傑作《受胎告知》です。フィレンツェのサンマルコ修道院(今は国立美術館)の階段を2階に上がったところにあるフレスコ画で、現地でご覧になった方も多いのではないでしょうか。処女マリアに天使ガブリエルが降り立って、「おめでとう、恵まれたかた、主があなたと共におられる」と、懐胎を告げるんでしたね。非教徒の僕でさえ、白昼のファンタジックなイリュージョンとして、こんな事もあったかもしれないと危うく信じそうになる巧みな筆致です。

 

f:id:iwasarintaro:20200314145751j:plain

さもありなんとまで思わせる説得力を支えるのは、3次元のように立体感を感じさせる遠近法です。これは一点透視法と言って、ルネサンスの大発明。平易に言えば、平行なレールも地平線では一点に結ばれるという原理。上の線画のピンクのラインで見るがごとく、この絵ではあらゆる線が、マリアの後ろの小窓に収れんするように描かれています。西洋が近代まで金科玉条としてきた遠近法の理想を見ることが出来ます。

それと対比的に、日本の絵画は平安時代の《源氏物語絵巻》の昔からすでに、自由な視点を設定したり、合成したりが得意です。遠近法も右下の広重に見るがごとく一点に収れんしておらず、伝統的にルネサンスの原理とは別の道を歩んできました。

f:id:iwasarintaro:20200314145857j:plain

そんな浮世絵が開国日本から流出して、もっとも深刻なショックを受けたのはマネとセザンヌでしょう。彼らは異国の画法が、ルネサンスの厳格な原理から自由に開放されているのを知って、近代絵画の進むべき未来を示唆していることを聡明にも直感的に感じ取っていた。セザンヌの場合は多視点の画法を応用して、わざと平凡な卓上の林檎というテーマを選んで、戦略的に実験画を連作で描く。「自分は林檎ひとつでパリじゅうを驚かせて見せる」と語っているのは、新しい絵画の世界観を開拓したとの自負の現れです。左下の画像でいろんな角度から見た「視点」の合成がなされているのがお判り頂けるでしょうか。

右の《フォーリー・ベルジェールのバー》は、浮世絵の技法や原理の新しさに真っ先に気づいて取り入れたマネが死の前年に描いた記念碑的な作品であり遺言。鏡に正対するのと斜め右からの視線が、自由に合

成されています。

f:id:iwasarintaro:20200314145948j:plain

この絵の鏡への映り込みを見て、「多視点だ」と解説する学者はいますが、その多視点が浮世絵の影響であることを正しく指摘した人は、僕のほかは多分まだ誰もいない筈です。たかが「視点の合成」ですが、これは近代のヨーロッパ絵画史の幕開けとでもいえる大事件。すでに発明されていた写真機のリアリズムとは異なる、画家が自らの主観で自由に絵を描く「近代」の始まりをここに見出すことが出来ます。日本の浮世絵の影響は、決して珍奇な異国趣味ではなく、本質的な絵画原理としてマネやセザンヌに密かに取り入れられ、つまりルネサンスが毀され、その後のゴッホゴーギャンマティスピカソにまで受け継がれ、ヨーロッパ絵画の流れを作りました。

日本の文化はすべて欧米の受け売りではありません。浮世絵のように印象派を生む母胎となって美術史に大きく貢献した例もある。自国文化を正当に理解して頂きたいと考えて、講演会などでもこんな話をよくさせてもらっています(つづく)。