古墳を巡り、継体天皇の謎を考える  ⑦継体即位の真相は、鉄の力か!

島根半島にある出雲もそうだが、越前も九頭竜川の河口に天然の三国湊を擁して、日本海側の海岸で半島からやってくる船が安全に風を除けられる泊地たり得たことは、都市として成長する上で非常な幸運だった。この地を辺境と呼ぶのは当たらない。それどころか越前は、海を越えて人々がやって来ては製鉄や製紙、建築、養蚕などの最先端の技術をもたらす情報の集積地で、恐らく当時は大和より先進性を持ったテクノシティになっていたのではないだろうか。そうなると、むしろ大和の方が後進地化したのかもしれない。大伴氏など大和の豪族は、生産力や軍事力の潜在的な落差を感じ、その力を恐れ、取り込むために、福井一帯に勢力圏を持つ継体を否応なく(あるいは戦略的に進んで)、担ぎ出さざるを得なかったのではないだろうか。

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大阪府高槻市にある「今城塚古墳」

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西暦507年、継体は26代天皇として、今の大阪府の淀川沿いにある樟葉宮(くずはのみや)で即位する。大和でなくてなぜ樟葉なのか、その後なぜ20年も大和には入れなかったのかについては、先々考察することにする。また、即位まもなく先代の武烈天皇の姉、手白香皇女(たしらかのひめみこ)を后に迎えているのだが、その事も合わせて、今後の考察の課題とさせていただきたい。その前に何より最初の大きな謎、「なぜ越前くんだりから新しい天皇が来たのか?」との問いに対して、読者諸賢はもうすでに明確な答えを用意されているだろう。「鉄の力ゆえに」——。それが答えだ。鉄こそが継体即位の真相だろう。

写真は大阪府高槻市の今城塚古墳。継体天皇陵と考える人も多い。宮内庁は近くにある別の古墳を継体陵と治定して厳格に管理している。今城塚の方は公園になっていて、自由に出入り出来るのも貴重だ。大きくて、石棺、埴輪など出土品も多く、展示館が併設されている(つづく)。