古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ⑩即位した樟葉宮の、絶妙な地政学

美術ファンには、つとにおなじみだと思うが、京都府の「アサヒビール大山崎山荘美術館」。モネの睡蓮や河井寛次郎らの民藝のコレクションなどの優品が見られるほか、イギリスのカントリー・スタイルと言えばいいのか、チューダー様式の質実美な建物が高台の立地にしっくりと調和して、見どころとなっている。

それに加えて、出かけた方にぜひご覧頂きたいのは、テラスから眼下に広がる石清水八幡宮(国宝)の山の姿や桂川宇治川など3本の川の流れ、その向こうに広がる雄大ランドスケープである。この地に別荘を構えたのは、大阪の実業家で壽屋(現サントリー)の山崎蒸留所やニッカウヰスキーの設立にもかかわった加賀正太郎。僕はまあよくぞこの景色を選んだものだと、選択眼に感嘆する。ふつうなら京都に箱庭のようなチマチマした人工庭園と屋敷を構えそうなところを、ことさらな塀も構えず、大地の起伏や水流など天地の姿をあるがままに賞玩しようと言うのだから、気宇の大きさはちょっと日本人離れしている。別荘はいくつかの変遷ののち戦後、アサヒビールの初代社長、山本為三郎が地元要請によって引き受け再建することになる。その時、死の床にあった加賀も所有するニッカの全株を旧友の山本に託し、山本が自らのコレクションを中核にした美術館として開館したのが1996年の事である。

 

美術館の話が長くなってしまったが、継体天皇が507年即位した樟葉宮(くずはのみや)は、ここから見下ろす視野の中にある。石清水八幡宮の山の右のあたりで、大阪府枚方市に属す。ちなみに枚方は「ひらかた」、関西人でないと難読地名かも知れない。

僕は長らく、継体がなぜ直ちに大和で即位せずに、このような土地を選んで、20年もの長きにわたって皇宮を構えていたのか不思議に思っていた。多くの人もそうだろう。この地は今から1500年前も昔の古墳時代の事だから葦やガマの生える湿地帯で、東には「巨椋池おぐらのいけ)」があったし、西には「河内湖」と呼ばれる巨大な汽水湖がすぐ近くまで迫っていた。現在の大阪平野上町台地を除くと、昔は海水が入りこむ大きな湖の水底にあったのである。

 

日本書紀によると暴虐の天皇、武烈が若くして死に子を残さなかったことから皇統が廃絶の危機にあった時に、他の有資格者を差し置いて継体天皇に白羽の矢が立ち、大和の豪族、大伴金村物部麁鹿火(もののべ の あらかい)らに懇請されて、26代天皇として即位することになる。それならば継体は、救世主のように一族を上げて越前から賑々しく、大和に入城することもできただろうと思う。ところが彼はそうしなかった。桂川宇治川、木津川があわさって淀川となって流れ出す三川合流地点の近くの樟葉で歩みを止め、大和まで50キロばかりの道のりを残すところに、皇宮を構えてしまった。大和の豪族たちは大いに肩透かしを食らわされると同時に、「継体、侮るべからず」と新天皇への認識を新たにしたのではないか。

 

なぜ継体の宮が大和でなく、樟葉だったのか。僕なりの推理と仮説をいくつか次号以下でご披露したいが、いずれも継体天皇という謎の人物を解明するうえで重要な視点であると思われる(つづく)。

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アサヒビール大山崎山荘美術館

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当時の大阪一帯 作図は筆者

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継体天皇像 福井県足羽山