古墳を巡り、継体天皇の謎を考える  ⑬樟葉の宮は製鉄工場を兼ねていた?!

継体天皇は樟葉を都としたが、樟葉を選んだわけは先ず第1に、石清水八幡宮がのちに建つ小山や河川など天然の要害に恵まれ、水路・陸路の要衝で、大和を睨んで進むもよし引くも可の、地政学的に極上のポジションにあったからだ。

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次いで、2番目の理由として、一帯は三川が合流し、河内湖などを控え一大沼沢地であったことが挙げられる。前回の話のように、樟葉という湿地帯は、最新の鉄製(ハイテク)農具で開墾すれば、たちまち黄金の稲作地帯に転換できる——継体はそう読んだのだろう。

 

さてもう一つ、樟葉を選んだ3番目の理由がある。ここから先は、僕の想像によるもので、飛躍度が大きい。古代史の正統派なら、文献や出土品を示せと詰め寄るかもしれない。裏付けがないのを承知で大胆に言ってしまうと、「砂鉄による製鉄」の好適地だったのでは、という説だ。

 

継体は何も初めての地に、モーゼのように一族を率いてやってきた訳ではあるまい。即位のときには豪族との調整役を務めることになる懇意な河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびと あらこ)らと、恐らく馬に乗って事前にフィールド調査を繰り返したはずだ。その調査隊には、渡来人の鉱山技師(たたら師)も帯同していて、川砂をすくっては上流の山々の鉱物資源の含有を調べた。砂鉄はあるかと。ちなみに、砂鉄は世界では、ニュージーランド、カナダ、日本が3大産地だが、花崗岩の山を必要とする。樟葉に注ぐ木津川一帯の山は、花崗岩質で出来ていたのだ!となると下流に位置する樟葉は、絶好の砂鉄の採取地点だ。ちなみに砂鉄によるたたら製鉄の起源を、確実な遺跡として遡れるのは6世紀半ばなので、継体は20~30年早いことになるが、古代史では誤差の範囲だろう。

 

おそらく継体宮はまだその頃、開拓村のような屋敷で、塀をめぐらせ、食糧庫や厩を持ち、練兵の広い庭、武器庫があり、合議のための政庁(オフィス)を中心に据えていた。その敷地の一角に継体は製鉄窯をもうけていたと想像したい。入植した百姓たちには冬場の農閑期、水が減って広く露出した河原で砂鉄の材料をすくわせ、周辺の森や山では燃料の薪を切らせるのだ。こうして武具はもちろん、鉄鋤や鉄鍬など最新の農具が整備され、沼地は稲田に姿を変え、木を切った後は牧草地として馬の肥育に充てる。継体は着々と地域経営と地力強化を進める・・・。

 

ただし皇宮は、樟葉の後、近辺の筒城(つづき)、弟国(おとくに)と数年ごとに移動している。それはなぜか、という疑問が起こるが、いまだ明快な説に出会ったことは無い。僕なりの答をお示ししよう。製鉄所は権力の根源なので、敷地内に食糧庫、武器庫などとセットで警備されるべき対象だ。ただ製鉄の問題点は周知のように膨大な森林資源を必要とする。窯業もそうだが、周辺をはげ山にしたあと、燃料を求めて窯を移転せざるを得ない。その時、先端技術の漏えいや簒奪を恐れ古い宮を廃して、丸ごと新しい皇宮に引っ越した。製鉄情報の秘匿と囲い込みこそが、樟葉近辺で皇宮を20年間に3か所移転した真相だと考えてみた。次回、継体陵と目される今城塚古墳の新解釈を(つづく)。