古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ⑭今城塚古墳はTVAのような地域開発だった?!

話が無茶振りで恐縮だが(笑)、TVAはアメリカのテネシー川流域開発(公社)のこと。1929年の大恐慌の折に大統領、フランクリン・ルーズベルトが経済対策として打ち出した「ニューディール政策」の一環で、ダム建設など、大型公共事業で不況・失業対策を行うが、政府による地域開発の最初の例ともされる。

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継体天皇陵と目される大阪府高槻市の今城塚古墳 宮内庁は近くにある別のものを継体陵と治定して管理している

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そんな事を思い出したのは、継体天皇陵と目される大阪府高槻市にある今城塚(いましろづか)古墳を見て、墳丘や水を湛えた環濠が半端なく堂々としていることに感銘を受けたのが始まり。これは故王を偲ぶ単なる墓標や塚ではなさそうだ。では古墳とはいったい何か、という点では意外と明快な答えは無い。権力を示威するシンボル、というだけではねえ・・。僕は前方後円墳の円墳が高いことから、これは敵の来襲に備えた砦と見張り台ではないか、と疑ってみた。立地的にも、淀川の右岸の方は当時の東西交通の幹線なので、そこに継体は兵站線が切れないギリギリで陵墓を兼ねた前線基地を設けたのではないのか。男山からも見通しが効くはず。もしそうなら当然、この古墳は被葬者が生前に作る寿陵との解釈になる。

 

さて敵はどこから来る可能性があるかと言えば、すでに越前、尾張びわ湖あたりは勢力圏なので、西からしかないだろう。継体に刃向かう勢力がいたとすれば、それは鉄の技術を持っておらねばならず、可能性があるのは九州、吉備あたりか。ならば想定する敵は山陽道をやって来て、この古墳と淀川の間の狭隘部を通過して樟葉方面を目指すはずだ・・・。

 

折しも朝鮮半島では、親交国の百済が北の高句麗の圧迫を受けていた。支援要請を受けた継体は西暦512年(継体6年)、大伴金村の進言により、何と半島の任那4県を百済に割譲してしまう。戦争に拠らない平和時の領土移譲など、露米間のアラスカの売買のほかは歴史のあとにも先にも例がない。ところでそうなると、任那で働き暮らしてきた倭人はどうなるのか。仕事を続けられたのか、資産や土地は没収されずに済んだのか。答えはすべて「ノー」だろう。こうした時、支配権を持った側は冷酷なものである。いきなり難民と化し、希望をなくした倭人が大量に発生し、家族を連れて日本海側の今の敦賀や福井の三国に引き揚げてくる・・・。そんなこともあったかもしれない。

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■今城塚古墳の近くには、埴輪工場の跡地と思しき史跡があって、現在は「新池ハニワ工場公園」として整備されている。継体陵の埴輪のために設けられたのだろう
 

もうこの辺は文献にもないし、古代史の範囲を越え、フィクションとの間にある話だ。さらなる空想を許してもらえるなら、継体は故郷に溢れる難民を、工人として自分の陵墓築造や埴輪の焼成、農地開拓にも投入する。樟葉から運ばれた鉄の農工具で、古墳築造と開墾は一体的に効率よく行なわれる。工期は仁徳陵が16年なら、今城塚(長さ200メートル弱)の大きさだと3、4年くらいか。墳丘は高くして軍事目的に、環濠は深くして灌漑や洪水時の遊水機能をもったダムにする。また工人たちは開墾後に入植者として定住する・・・。この辺で僕は古墳時代のTVAだなあ、と妙な連想をしてしまった次第。現在、今城塚古墳の最寄り駅の名は、富田(阪急)と摂津富田(JR)である。昔からの名前らしく、僕は「富田」はそのもとは「屯田」ではなかったかと考えている。次回、継体は入婿だったのか?(つづく)。