古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ⑳ピンク石の石棺は、参勤交代と同じ役割だ

■古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ⑳ピンク石の石棺は、参勤交代と同じ役割だ■

 

いよいよ継体の物語も最終回を迎えようとしている。大阪・高槻の今城塚古墳。1998年に、継体の遺体を収めた石棺の一部と見られる断片が発掘された。石の産地は九州の阿蘇山の近くに限られたもので、その赤い瀟洒な色目から、「阿蘇ピンク石」の名称がある。10万年ほど前の溶岩の破砕流が固まったものらしく、古墳時代の人にとって見れば、たいへんな貴石だっただろう。江戸時代でも細川藩がこれを直轄管理した。

 

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7トンもピンクの石棺を今の熊本・宇土から大阪・高槻まで船上輸送した

ところで、いったい全体、このような貴石の石棺が、なぜ作られ、どのようにはるばる九州から高槻まで運ばれたのか。2005年のこと、ある興味深い実験イベントが行われた。地元でピンク石の石棺を復元し、修羅(しゅら=そり)を作って港に運び、古墳時代の仕様で建造した古代船に乗せて、有明海から関門海峡を抜け、大阪湾まで運ぼうと言うのである。

重さは何と7トンにもなったそうであるが、巨大な大王の石棺を商船学校などの若者たちが連日、交替で舟を漕いでえい航し、延々1千キロ近くを、まる1カ月かかって運ぶことに成功した。今日でも大掛かりな難事業だったが、その困難ゆえに逆に6世紀前半の昔に、継体が壮大な事業を遂行する絶大な権力を保持していたことも証明されたと思う。その点でも大変意義深い。

 

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2005年、復元された古代舟が若者たちによって漕がれ、石棺は1千キロの海路を運ばれた

さあ、それでは何のために阿蘇ピンク石の石棺は作られたのか。僕はまだ気の効いた解釈に出会ったことは無いが、これは「磐井の乱の戦後賠償の一環」だったと見ている。先にも書いたように、磐井の子は土地を差し出して助命嘆願した訳だが、さらに継体は自分が準備している古墳の石棺として、高貴なピンク石で製作を命じ、遠路を運ばせて献上させたのではないか。あるいは中央の豪族が、継体の歓心を買うために、そのような案を持ち出したか。戦争の勝者は敗者に常に過酷な要求をするものだ。

 

ここで思い出して頂きたいのは、継体の第3ドクトリン、「豪族の弱体化」である。何か所にも寄港しながら石棺は運ばれるので、その都度、地方豪族の労役を徴用しながら、港から港へとリレーされたと思われる。これを指揮する物部氏、大伴氏にとっても、自らの軍功をアピールするチャンスと見た筈が実は、復路でも大変な消耗を強いられる破目になったのではないか。参勤交代と同じ狙いなのだ。筑紫の国造(くにのみやっこ)に任命されたところで、勢力も分断もされ痛しかゆしだっただろう。

 

現代のマーケットでもそうだが、業界1位の強者の下に2番手を争う2社があるような構造の市場では、2番手を争う2社がお互い反目してツブしあうと、1位に漁夫の利を得させてしまうことが多い。1位は両者の上に乗っかって均衡をとるだけで結構ラクに地位を守れる。継体とその下の大伴、物部氏の話をしているのだが、これは今日の会社におけるトップ人事や、また僕らがなじんだヨット・レースなどでもよく見られる現象だ・・・。

 

懸念したことだが、やはり今回で終わることが出来なかった。次回こそ本当に(笑)、継体とは何であったか、日本史上どんな意義を持ったかをまとめて、このシリーズの筆を措かせて頂く(つづく)。

 

美術評論家/美術ソムリエ 岩佐倫太郎