古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ㉑《最終回》 謎と言われる継体の実像を解き明かす

■古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ㉑《最終回》 謎と言われる継体の実像を解き明かす■

 

5月(2020年)のGWのさなか、外出自粛の折り、宝塚のわが家のそばの「中山荘園古墳」に出掛けた。径が13メートルもの珍しい八角古墳だが、驚いたのはそこからの景色。車も工場も排ガスを出さないとこうなるのか。生駒、二上(その向こうが大和)、葛城、金剛と連山が輝いている。当時は打ち寄せる波も見えていただろう。僕は一瞬、ここに墓を構える古代人のこころが分かった気がした。

 

さて、継体に謎が多いのはひとつには、若い頃の記録が全くないからだ。幼くして今の滋賀の高島で父を亡くし、母の故郷の越前に戻り、次に「記紀」(古事記日本書紀)に登場した時にはいきなり天皇指名を受ける段になる。この間何をしていたのか。思うに、青年継体は朝鮮半島に渡り、百済の王族らと交わり、多くの商権を手に商社のようなことを帰国後始めたと想像するのが妥当だろう。中でも、紙、鉄、馬などは主要な商材であった。また自前の製鉄業を開始し、軍備を拡充し農地の生産性を挙げて頭角を現した。それが後年の天皇推挙につながったと思われる。継体は皇室傍系の「血を純化」すべく、自身や子弟の婚姻にも腐心はしたが、実態はリアルな実業家で、シャーマニズムの祭祀的な政治を脱して、文明の力を行使した最初の天皇だったと規定できる。

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日本海を中心に、地球の地図を逆さにしてみれば、日本海は内海、もしくは地中海だ

また継体が即位したものの、大和に入らず樟葉に宮を構えたのはなぜか。既述の通り僕の考えでは大和に土地を持たなかったから。それでは軍を養い皇宮を営むどころか、いつ逆臣に襲われ亡き者にされるか判ったものでは無い。継体は地政学的な要衝の樟葉で、のちの徳川家康が関東の湿地で行ったと同様、新田開発を行う。鉄の技術がそれを可能にした。「屯倉を増やす」は継体の重要施策となる。ところでもし樟葉近辺で砂鉄による「たたら製鉄」までも、既に始めていたならば凄い話だ。木津川は花崗岩質で、たたら製鉄に向くはずなのだが、何ぶんにたたらの窯は1回ごとに毀すので、遺跡が残りにくい恨みがある。この僕の仮説は、先の宿題とさせて頂きたい。 

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継体を宮中の祭祀の最奥にいる天皇のように考えない方がいい。事業家なのである

さて継体が、狭隘な樟葉のほかに、淀川右岸の高槻で行った寿陵(被葬予定者が生前に作る墓)の築造は、新田開発を兼ねていたと見た。世界恐慌の時のアメリカのTVAのように、任那割譲に伴って発生した難民や渡来人を就労・植民する国家事業でもあったかと推理する。継体はさらに山陽路に勢力を西漸させ、大和をぐるっと包囲したうえで、ようやくその中に宮を構える。

 

その直後に、筑紫の磐井討伐の命を出し、戦勝後は遠く石棺を運ばせる賦役で「豪族の弱体化」も図りつつ、天皇専制の最初の中央集権を果たす。またこれは、後の律令国家誕生につながる。結論付ければ、継体は古墳時代の中後期、鉄文明が急速に進捗するグローバリズムのうねりの中で、最初に統一国家をつくった人物と位置づけられるだろう。ちなみに日本史の中で、新しい文明に準じて国を作り直した2番目の例は、明治の文明開化を待たねばならないのである。

 

と以上、これまでの骨子をザクッとまとめてみた。まだ語り足りないことも課題も多いが、今回でひとまず筆をおかせて頂く。こんなに長くなるとはねえ!書いてみて思うのは、古代史の文献はほぼ「記紀」の2書しかないことだ。逆にそれだから古墳に出かけ、想像をめぐらせる楽しさがある。妙に知識を詰め込まず、足と頭を大いに働かせて頂くと、古代史は面白くなると思う。ご愛読頂いた皆さま、コメントを頂いた方に深く感謝!僕も美術の故郷に帰り、土地を耕し、種を播かねばならない。そのうち、またお会いしましょう(継体の項、完)。

 

美術評論家/美術ソムリエ 岩佐倫太郎