ロンドン・ナショナル・ギャラリー展 ③ティントレット

ルネサンスとは何か、その答えは、この《天の川の起源》が教えてくれる。■

 

ギリシャ神話の物語は、エロスと暴力性に満ちて骨太い。それゆえ、いつの時代も画家を魅了する。この《天の川の起源》は美術史的にも重要な名画で、作者はヴェネツィアルネサンスの巨匠、ティントレット(1518-1594) 。

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《天の川の起源》 ティントレット1575頃 149.4×168cm

 

語られている話はこうだ。赤い腰巻をして赤ん坊を抱えた黒い男、これが、ギリシャ神話中の最大の主神ゼウス。大変な色好みで、正妻以外にせっせと愛人を作っては、旺盛に子を成す(まあ神話はそうでないと、発展しませんのでねーー笑)。ゼウスは、外で作った子がお乳欲しさに泣くものだから不憫を覚え、誰かミルクをくれないかと探す。神々との戦いでは雷を武器に勇ましい軍神となるゼウスだが、こうなるとオロオロとただの父親だ。そこに運よく見つけたのは、わが正妻が寝ている姿。この色白の裸体の女性こそが、ゼウスの妻、ヘラであった。日頃から嫉妬深くてゼウスは苦手なのだが、この時ばかりは「しめた!」と、わが子をその乳首に吸いつかせたのである。

 

ちなみにその赤子の名は、ヘラクレスという。成人して多くの武勇伝を立てギリシャ神話中で最大の英雄になるくらいだから、赤ん坊時代からハンパなく力強い。寝ていた正妻ヘラは、吸われる力のあまりの強さに、びっくりして痛みとともに目覚め、自分に吸いつく赤ん坊を邪険に突き離す。その瞬間、ヘラの乳房からは大量のミルクが天空に噴き出し、それが天の川(ミルキーウェイ)になったとさ、というお話であります。

 

ところで、我々はどこを見てこの絵をルネサンスと見なせばいいのだろう。それはとても単純で大事なことなのだが、まずこの絵が、キリスト教(一神教)の物語を描かずに、ギリシャ神話(多神教)を描いている点だろう。もちろん聖書の物語を描いた、ルネサンスの名画も多くある。ただ、この絵や有名なボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》のように、ギリシャ神話を題材にするのは、一神教の世界では背神的な行為だろう。エロスと笑いで倫理的にガチガチのキリスト教社会に反抗している。僕らは学校の教科書で、ルネサンスといえば「文芸復興」などと訳の分からない言葉を教えられ、そこで思考はストップしたままだ。しかし、この絵や《ヴィーナスの誕生》を見て、ルネサンスの本質に「キリスト教からの離反」があることに、もし気づいて頂けるなら有り難い。ルネサンスとは、人間が長い歴史の中でようやく自我に目覚め、キリスト教を疑い、(ギリシャ哲学も参照しながら)新しい思想史を踏み出す記念碑的な第一歩なのである。

 

さて思想的なことを別にして、この絵を描画法で見るならば、構図は盛期ルネサンスの大家、ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井に描く《アダムの創造》と共通する。この絵も天井画を想定したのか、どこから見てもいいように描かれて、天地がない。また彫刻的なまでの立体表現はミケランジェロへのオマージュともいえる。それに加えて、巧みな布のシワ感の表現や、赤と金色のグラマーな分量感にも、我々はヴェネツィア特有のルネサンスの美質を見出すことができるだろう。そしてバロックの時代はもうそこに来ているのも、お分かりいただけるかもしれない。

 

大阪・中之島国立国際美術館の、「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」は、来年1月31日まで。時間指定制。

なおこの絵の展覧会での解説は、ローマ神話として扱っているので、ゼウスは「ユピテル」、ヘラは「ユノ」と表記されている。

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ

 

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参考図像。ミケランジェロ、ヴァチカン・システィナ礼拝堂の天井画、《アダムの創造》。1511年頃
。神が最初の人類であるアダムに生命を吹き込む場面。旧約聖書の「創世記」に基づく。