2013のNOTEの記事を再録     【飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡】(東京国立博物館)を見る

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  【飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡】(東京国立博物館)を見る130301

 

 

円空江戸前期の遊行僧。生きた時代は芭蕉とほぼ同じ。生涯に12万体もの仏像 を彫ったとも発願したとも伝えられます。http://enku2013.jp/highlight.html ←円空展のサイト 

 

国立博物館の本館で実際に対面すると、息苦しいまでに林立する100体もの円空仏。画像だけではわからなかった2メートルをはるかに超す巨像に対面して、驚愕 させられてしまう。しかも展示室に充満する呪術性さえ帯びたにおいの濃厚さは、 美術鑑賞として澄まして見るのを許してくれそうにない。どこまでも我々を呼び込 んで、腕を引っ張り、心をわしづかみにするパワーに満ち満ちているのです。古代日本人の祈りも彫刻の前衛も全てここにあるといっても過言ではないでしょう。

 

彫刻が仏像だけかと思ったら、鳥の姿の「迦楼羅」(かるら)のようなヒンズーの神、古事記にも登場する日本の神である「宇賀神」、また象頭人身が抱きあうチベット的な「歓喜天」まで含まれ、神仏習合どころかアジアの神様が何でもありの汎神論的な円空ワールド。それをまた違和感なく我々が受け容れるのも、実は日本人の古代からの宗教感を代表しているからに違いありません。それは一言でいうと森羅万象に遍満する神々を見出すアニミズムアニミズムなどと気軽なことを言ってますが、実際に歌人でもあった円空の作歌を見ると、遍満する神々の顕現、その奥にある偉大なる「力」を彼なりの詞で「法の道(のりのみち)」と繰り返し表現し、崇めたて絶対的な信頼を寄せているのが分かります。

 

円空修験道密教を極め、実際に、伊吹山大峰山など数々の今で言うパワースポットの山々を遍歴し、その足跡は東北から北海道にまで及んでいます。それゆえに歌の調べも西行など古今集的な風流道よりはるかに厳しく、江戸時代にありながら万葉集に直結する超古代的な歌人でもあります。

 

思うにこの人の場合は自分の中の神仏の祖形のようなものがまずあって、それに感応する場所を求め山野に分け入る、深い喜悦の体験を得るたびに、まるで素早い記念写真のように神仏像を彫って、その土地に残してきたのではないか。我々は円空を通じて、古代日本人の精神をもう一度確認し、洗礼されているのではないか、それが円空の持つインパクトではないかと改めて思うわけです。

 

ところで荒々しい鉈の削り跡が凄いと思うのは、一瞬たりともためらいがなく、正確堅固なイメージが初めからあったが如く、造像に完成感がある点。絵画と違って、下描きも修正も効かない、何分にも削ってしまったらおしまいの木を相手に毎瞬毎瞬がアドリブのような彫刻です。奔放な現代彫刻のような破格の造形も、素材の樹木の生命に敬意を払うがゆえに生まれた必然でしょう。

 

ここで思い出すのは、夏目漱石の小説、「夢十夜」。彼にしてはめづらしいカルトな短編集ですが、そのなかに運慶が仁王像を彫っているのを見にゆく夢の話がある。運慶は多くの見物人があるのも頓着なく、はしごをかけて勢いよく仁王を彫っている。それで夢の中で若い見物人に、「よくもあんなに素早く間違えず彫れるもんだねえ」みたいなことを漱石が言うと、若い人は漱石に、「いやあれは仁王像を取り出しているんです、土に埋まった石を取り出すのと同じことだから、簡単なんです」といった解説をする。

 

僕が記憶だけで再現したディテイルは不正確ですが、なまじテーマも筋もないだけに文章職人としての漱石のうまさが際立つ小説でした。円空の造像の秘密もここに書かれているのではと思う次第。

 

 

【特別展】飛騨の円空  【東京国立博物館・本館】2013年4月7日まで