(2013年6月のNOTEへの記事を再録)【岡山県・高梁市の頼久寺(らいきゅうじ)】に小堀遠州の庭を見る    

岡山県高梁市の頼久寺(らいきゅうじ)】に小堀遠州の庭を見る
 

 

 小堀遠州は江戸初期の人(1579~1647)。作庭家にして茶人。遠州流の開祖であり、書も和歌もよくした芸術家であることは知られていますが、身分を言うと、江戸幕府、特に3代将軍家光に寵愛されたいわば高級サラリーマンです。彼は作事奉行として城の再築・修築に成果を上げたばかりか、内政にも秀でた能吏でした。今で言えば、社屋建設や周年事業などをよく仕切り、創業家の覚え目出度い総務担当の専務執行役員といったところでしょうか。

さて遠州のこの庭、ぜひともサツキの大刈込が満開の時期に見たいと早くに問い合わせると、「花は6月初旬が最高です」とお寺に教えていただき、それでは、とその時を期していたのでした。ところが僕の住む宝塚でもサツキが咲き始め、盛時を迎えてくると気が気ではない。ま、これも病気なのかも知れません。それで時間をやりくりして、いまだ!とばかり、その日、家を飛び出した次第。

 

 岡山市からまだ北へ、まったくの山中でした。昔はおそらく山陰と山陽を結ぶ交通や軍事の要衝の筈。遠州も父の跡を継いですぐ近い備中松山城の藩主を務めたことから、居所にしたこの頼久寺の庭を再興したようです。若いころの作庭ですが、背後の山を借景にして、鶴島(手前)、亀島の石組み・・。ここまでは定石通りですが、石組みを囲むサツキや背後の垣根の整形美はもうすでにポストモダンデザインです。それに驚くべきは、下の右の写真にもあるサツキの大刈込の華麗なこと。鶴亀が遊ぶ大海原の青海波をサツキで表現したということですが、量感、肉感ともにバロック的と言っても差し支えない造形の美意識です。 

 

ふつう枯山水の庭というと、なにか武張っていて取っつきにくく感じられることもあるかと思います。ところが、ここがまさに遠州の才能でして、明るく軽やかでファッショナブルともいえる世界を、すでに若くしてためらうことなく展開しています。貧乏なワビサビとは違う、端正でありながらある種、気位の高さもうかがえて、遠州が時の権力の代々に寵愛された秘密も、わかる気がします。何か殿様的な気分の良さや目出度さもありますからね。

 

遠州南禅寺の金地院の庭のように、権力をおもんぱかり過ぎて、コンセプトは合っているがデザインとしては凡作を作ってしまうことも時にありましたが、これは紛れもなく才能あふれる代表作と僕は判定しました。 

 

遠州は西洋の整形庭園の情報を、堺などに渡来する南蛮人たちから仕入れていたのでは、ともいわれます。もし綺麗さびは西洋のバロックから生まれた、などと言い立てると確かに面白い。インド仏教に基く禅の庭、中国の蓬莱思想、西洋のバロック式デザインがここに融合したとしたら、その気宇やまことに壮大と言わねばなりません。ただ思うのは、綺麗さびのルーツは、そんなことよりもやはり遠州の血の中に流れる、たおやかで優美な王朝思慕にあったと思えるのです。平安の耽美をそのままではなく、デザインの力で武骨な石庭を、スピード感と素軽さ、明るさやグラフィック感覚の伴うものに作り替え、江戸というか現代の嗜好にマッチしものに仕上げたのが遠州。近代日本のデザインの創始者であるかもかもしれません(写真は筆者)。

 

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