(2014年のFBのNOTEを再録)【映画、<利休にたずねよ)>と 利休賜死事件の真相 その②】

【映画、<利休にたずねよ)>と 利休賜死事件の真相 その②】 
 

秀吉はひどい奴だ、とか利休が気の毒、と思うなら戦後の民主主義教育に毒

されてます()

 

井上靖のやはり利休賜死事件を扱った「本覚坊遺文」を読んでいた時のこと。秀吉が九州、小田原などを平定して天下統一を果たした天正18(1590)、この秋から翌年1月にか けて、わずか半年足らずの間に何と利休は100回に及ぶ茶会を開いている。念のため休百会記」などの資料にあたってみてもその通りで、おびただしい茶会の記録が残っている。

 

それも13回とか。ちょっと異常じゃありませんか?何か狂おしいまでの茶会への傾倒ぶ りです。どうもこの辺に賜死事件のカギがありそうに思うのです。 ちなみに呼ばれた客は、家康、細川忠興古田織部織田有楽斎など武家のほか、有力商 人などなど。秀吉自身も5回ばかりこの間に茶席に出ています。秀吉は天下人になるだけの ことはあって、茶道にも十分通じていたと思われますが、ではお茶が好きだったかというと、 「それが天下統一に役立つ場合においてのみ」、好きであったのでしょう。

 

政権をとるのに使 えるか使えないか、醒めてそれくらいに見切っていた筈。キリスト教を貿易の独占に使えるう ちは利用し、危険となったらたちまち禁教令を出して、宣教師や信徒を追放したのと同様です。

                                                                   

「御茶湯御政道」(おちゃのゆごせいどう)という言葉があって、信長も秀吉も大名たちの間で大流行した茶の湯と名物茶器を、恩賞など大名支配の道具として利用しました。秀吉のばあい、茶会をさらに皇室との融和にもまた大衆の人気取りにも使います。正親町(おうぎまち)天皇に対する黄金の茶室での献茶や、有名な北野の大茶会はその例です。いずれもそこに投入する秀吉のエースは、天下一の茶人とうたわれる「利休」でした。                                                                   

 

さて、ようやくわが論旨は、利休賜死を語るところまでたどり着きました。結論を先に 言うと、まことに単純でそっけない見方ですが、僕はこれを「秀吉による茶道の粛清」 と考えます。茶道具で夢中にさせているうちはいいが、度重なる茶席は、クーデターや 謀反の温床になる。その怖さを一番知っているのは秀吉です。下剋上の覇者は逆に、臆 病な動物のように神経を張り巡らせ、かすかな不穏の物音も聞こうとする。現に信長様 はお茶に呆けた夜に部下のクーデターで落命したではないか!秀吉の頭の中に警報が鳴り響いたのだと思うのです。

 

大名や家臣が自分の知らぬところで頻繁に往来するのは捨て置けない。商人は戦争でひと 儲けを企むがゆえいっそう始末に悪い。天下人となった今、もう茶道のサークルは危険 極まりない、将来の禍を即取り除いておくべし! 

                                                             

独裁者は非情です。部下は使い捨ての駒でしかない。疑念があれば平気で殺すのが常。 昨年秋の北朝鮮での出来事も、その典型例でしたね。 頑丈に見える石積みのアーチの建築も、頂点にあるキーストーンを浮かして外せばあっ けなく瓦解するように、このばあい利休という「くさび石」を亡きものにするのが早い、 そう秀吉は平然と考えた。賜死の真因はそれではないのか、個人の怨念の対決ではなく。

 

そうすると次の疑問は、秀吉のもとで禄を食む利休が、なぜみすみす命の危険に身をさらすよう な不用心な挙動に出たのか。僕の仮説を次回ご披露しましょう(つづく)。

 

(映画の原作者、山本兼一氏が2月13日に逝去されました。57歳。ご冥福を

お祈りいたします)