【オペラ日記② びわ湖ホール カルメン】2021年8月

【オペラ日記② びわ湖ホール カルメン
去年のびわ湖ホールは、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」のシリーズ最終年にあたり、「神々の黄昏」が予定されていた。指揮は同ホールの芸術監督でもある沼尻竜典で、僕もチケットを入手して心待ちに期待していた。ところが、コロナのためにチケットは払い戻しの事態に。さすがに中止も止むを得ないかと思ったら、なんと無観客公演を敢行し、ネットでストリーミング映像を流し、後日DVDを発売するという快挙がなされた。僕も家にいてパソコンで観覧したが、総視聴数は何と37万回に上ったという(客席数の200倍!)。困難な時期にオペラへの情熱がほとばしるようなレベルの高い公演が実現したが、ホール側の心意気のある対応はまことに称賛に値する。
 

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さて、そのびわ湖ホールの今年の夏のオペラは、同じく沼尻竜典が指揮する「カルメン」。オペラの中でも抜群の知名度の演目だけに、物語はもう多くの人に知られているだろう。あえて簡略にあらすじを記せば、カルメンはジプシー出身のたばこ工場の女工。同僚とのいさかいで傷害事件を引き起こす。その女を取り調べのための護送にあたったのが、警備を担当する田舎出の純朴な竜騎兵の伍長、ドン・ホセ。物語はここから、ひたすら惚れた女のために身を持ち崩す男の話だ(逆の例はよくあるけどねえ)。
 
カルメンはドン・ホセを甘言で釣って護送中にまんまと逃亡し、ホセは責めを負って軍の営倉に収監される。が、カルメンは出所後お礼に自分の体を与える。エキゾティックで放埓な美形にハニー・トラップを仕掛けられ、純情青年はすっかりのぼせ上り、メロメロの言いなり状態。ついにはカルメンが身を投じた盗賊の一味を手助けするようにまでなる。軍勤務者が反社会勢力の片棒を担ぐわけである。もうこうなっては軍にもいられない。だが舞い上がったドン・ホセは、故郷の許婚の言葉も母の心配も耳に入らない。堅気の筈の人生に、思わぬ転落が待ち構えていた。
 
ところが皮肉なことに、恋多き女カルメンの情熱の対象は長く一人にとどまることはできない。彼女の愛情はいつのまにか別の男に移っていた。相手は男っぷりのいい闘牛士のスーパー・スターである。ホセは嫉妬に猛り狂うが、どうやらもう自分にカルメンの心がない様だ。最後にホセは、カルメンに昔を取り戻し、アメリカへ行って一緒に暮らそうと懇願をするが、にべもなく拒絶される。それどころか、渡した結婚指輪を指から外して、目の前で投げ捨てられる。ちょうどそのとき闘牛場からは、カルメンの新しい恋人が牡牛を倒し観客の熱狂的な称賛を浴びる歓声が聞こえて来た。ホセは「もはやこれまで!」と自暴自棄になって、短刀でカルメンの脇腹を深々と刺し貫くのだった――。
 
ダブルキャストだったので、僕は2年前の奈良・薬師寺で行われた「オペラ時空間絵巻」(赤穂隆史総合プロデュース)のとき、テノールの村上敏明さんの朗々たる美声のファンになっていたので、彼がドン・ホセを務める日を選んだ。実際この日も彼の声量ある歌いっぷりは、全編を通じて舞台の重心をつくり、場面をつないで物語を一つにまとめ上げていた。
 
ただ僕にとって疑問が残るのは、アレックス・オリエと言う人の演出だ。「カルメン」の舞台を現代の都市に置き換え、カルメンはロック歌手、ドン・ホセたち軍隊は警備会社、後にカルメンやホセが行動を共にする盗賊の一味はドラッグ・ディーラー、と言った風に改変してみせたのである。ご本人は現代における女性の勇気と自由の象徴としてカルメンを演出したと主張されているが、僕はあまり説得力を感じない。見る側としては違和感が拭い去れない。これではスペインの辺境地のオリエンタルな雰囲気と、血なまぐささや埃っぽさが全くなくなってしまっている。物語を知的に解釈しすぎて、これまで多くの人が共有してきた説話的な面白さが消し去られている。
 
ちなみにオペラの原作となったメリメの小説が生まれた19世紀半ばから世紀末のフランスは、産業革命後の急激な植民地主義に伴う辺境への関心や、都市化の疎外感に耐えられない芸術家たちが、別の楽園の物語を夢見た時代だった。僕の専門の美術でいえば、マネはスペインに憧れ、ジャポニスムの代表のゴッホは日本の陽光を夢見てアルルに移住し、ゴーギャンタヒチに新天地を求める。詩人でいえば、ランボーもアフリカに行くし、ボードレールは薬物に逃れた。メリメの作品もそうした時代の思潮を先取りするものだが、それをニューヨークのような現代の都会に置き換えると、「カルメン」が成立した時代背景をすべて捨ててしまうことになる。それなら実は、闘牛士も闘牛も無くていい。スペインだからこそ闘牛士がいて、ジプシーのカルメンが登場する必然がある。衆人環視の中での牛の殺戮とカルメンの刺殺。牛を殺す槍とカルメンを刺すナイフは呼応しあっている。また流れる牛の赤い血やカルメンの血も、鏡で鏡の像を映すように乱反射しあう。どちらも予告された死に向かってひたすら進むから、見る者の心を締め上げ、強烈なホラー感やドラマツルギーを味わうことになるはずなのだが――。それなのに何故か演出家は最後にカルメンの恋人の闘牛士を完全な盛装で唐突に登場させるのである(コスプレで現代に登場という事では無さそうだ)。これは演出の矛盾を露呈したと言うか、破たんになってはいまいか。
 
この演出家は2年前のやはりびわ湖ホールでのプッチーニの「トゥーランドット」(誰も寝てはならぬ、のアリアが有名)で、通常めでたしめでたしで終わるはずの物語を、トゥーランドット姫の自害の結末にしてしまった。これも違和感が残ったものだ。オペラは物語であり、民衆の願望や説話の積み重ねを肥沃な土壌として、その上に花咲く大衆的なものでなければ根無しになってしまう。斬新と言われる演出がオペラに入門しようとするファンを減らさなければいいがと、懸念した次第。