【ビル・エバンスのドキュメンタリー映画を見る1/2】

 2019年7月
 
友人たちのFBの投稿に教えられて、ふだんめったに映画に行かないのに先日、朝早く梅田のシネコンに出かけた。ビル・エバンスドキュメンタリー映画「Time remembered」を見ようと言うのである。僕もジャズ・ピアニストにして作曲家のビル・エバンスの「ワルツ・フォー・デビー」を愛聴するひとりで、数年前、我が家のオーディオにハイレゾを導入した時も真っ先に購入した曲がこれだった。
 
ビルのピアノはジャズ特有の暑苦しさやブルース感覚は無い代わりに、甘美な沈鬱というか、いかにも白人的なメランコリーな叙情が聞くほどに沁みてくる。それにもまして魅力的なのは、ベースのスコット・ラファロ。25歳で交通事故で他界したのは誠に惜しまれるが、ゴリゴリと生木をノコギリで引くような、音とも音楽ともつかない武骨にも聞こえるベースは瞑想的で、僕にとってはいち番クリエーティブなベーシストなのである。まあ、その辺を映画館のスクリーンと音響装置で再度確認しようと、映画館に足を運んだ次第。
 
映画を見てうっかり忘れていたことを思い出した。マイルス・デヴィスが歴史的アルバム「カインド・オブ・ブルー」(1959年)を録音した時、ビル・エバンスも唯一の白人として参加していたのだ。セッションの模様を見ながら、マイルスがなぜビルを求めたのか、よく解った気がした。マイルスは、確かにビッグバンドによるスイングに訣別して、ハードバップをも脱け出し、新しいジャズの世界を構築しようと試みていた。ジャズがノリのよいダンスの伴奏音楽などでは決してなく、現代的な個人の自我に立つ、クラシックとも肩を並べられる構造や空間を持つ音楽にしたかったのだ。ジャズを純文学にしたかったとも言える。とりあえず並ならぬ腕力で従来のジャズを毀して新しい家の柱を立ててみたものの、マイルスという野心的な棟梁には、新しい家の中身をファーニッシュする相棒が必要だった。それが従来のスイング感覚とは全く別の、いわばショパンのようなクラシック音楽的な感性を持ったビルだったのである。
 
ビルはマイルスと立体的に絡み合い時に対立しながら、音空間に憂愁や耽美といったジャズが従来扱わない、文学的と言ってもいい価値を持ち込んで、マイルスのコンセプトを支持し立体的に拡大している。なおかつバンドリーダーのマイルスに自由な浮力を与え、斬新な音の冒険家として、また永遠を奏でるトランペットの詩人として、遠くへ飛ぶのを絶妙にサポートした。ビルなくして、「カインド・オブ・ブルー」は生まれなかっただろう。映画のおかげで、その辺の呼吸が見えてくるのだ。またしても文章が長くなってしまった。歳のせいかな(笑)。映画の後半、ビル・エバンス・トリオによる、この上なく美しいジャズの珠玉の名作、「ワルツ・フォー・デビー」については次回にさせて頂こう。