【なぜ、村上春樹はノーベル文学賞を獲れないのか⑧――最終回】

なぜ、村上春樹ノーベル文学賞を獲れないのか⑧――最終回】

 

1901年に始まったノーベル文学賞の歴史を遡ってみると果たして、幻想や虚構の文学は意図的に排除されて来たことが判明する。戦前では「変身」のカフカを始め、プルーストジョイス現代文学の巨人たちも受賞していない!SFの大家、「タイム・マシン」のHGウェルズも同様。質実を尊ぶゆえに未来的空想は排除されるのか。戦後ではカフカと同じチェコの「存在の耐えられない軽さ」のクンデラも未授賞だ。

 

ところで話は変わるが、経営学では「ポートフォリオ分析」と言って自社の製品や技術を4象限の分割法で評価する方法がある。ありていに言えば稼げている分野があるうちに、次の儲かる分野を見つけようとする分析法だ。いまキャッシュを一番もたらしている分野を第1象限とし、将来もっとも成長を見込めるだろう分野を第4象限とする。第4象限こそは可能性に満ちた未墾の沃野で、このポートフォリオ分析を試みにノーベル文学賞に当てはめると、例えば村上作品のように現実と虚構が交錯する文学空間がそれにあてはまる。この象限の読書はジャズを聴くのにも似て、送り手と受け手が自由かつ柔軟にイメージを生成させ受け渡しをする、「創発的」な体験になる。これは別に驚くことは無くて、抽象画も近代音楽もすでにそうなって、小説が遅れているだけの事だ。ところが敢えてなのかスウェーデン・アカデミーでは、この分野がネグレクトされ、すっぽり抜けて来た。

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そんな中で僕が一つの希望に思えるのは、2017年のカズオ・イシグロだ。彼の最高傑作のひとつ「私を離さないで」は、読み進むうちに怖い虚構のSF小説でもある事が判明して慄然とする。だが同時にリアル世界が折り畳まれて接続し、物語は多義的で隠喩に満ちた空間で展開し、読後には名状しがたい悲しみが残る。伝統に反してSFも書く作家にノーベル賞が与えられたのは驚きだ。また「日の名残り」においては、話は抑制の効いた気品とユーモアの筆致で語られ、まるで小津映画のように人の営みを東洋的な諦念で描く。神も実存もヒューマニズムも、実は救いえない人間存在の悲哀を、月のような慈光で包んで感銘深い。非西洋的思想のイシグロを選んだのは、アカデミーの新しい前進かもしれない。

 

さて村上の文学は僕なりに規定するならば、「キッズ文学でありスマホ文学」だ。家出した遊蕩児のように自由で、背負うべきモラルは無く、スマホのように音楽やゲームやチャットと文学が一つのデバイスの中に融合し、読者の日常生活の分身として息づく――それが村上文学だろう。アカデミーはそこに踏み込んで評価するのにまだ戸惑っているのではないか。

 

最後に村上がノーベル文学賞を獲る可能性は、あるのか。近年アカデミーの終身制が崩れ、世代交代も期待でき、また東アジア文学など専門のウオッチャーたちが選考をバックアップする体制もできたようだ。頼もしい追い風だろう。授賞に政治的メッセージを込めるだけでなく、多様な文学を認める土俵が整えば、チャンスはある。賞は存命なことが原則なので、ファンの一人としても、村上に長生きしてもらって朗報を待ちたいところだ(これにて村上春樹ノーベル賞の項、完)。