【大阪中之島美術館 開館記念 超コレクション展】佐伯祐三《郵便配達夫》

■この郵便夫は、もしかしてゴッホが遣わした神様か。

 

芸術家が死ぬ前に残す名作を「白鳥の歌」と言うのはご存知かと思うが、この作品などさしずめ、白鳥の歌と言うにふさわしいだろう。大正・昭和初期の日本の洋画家、佐伯祐三(1898-1928)による《郵便配達夫》。30歳でパリ郊外で客死する直前の、絶筆に近い作品だ。

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佐伯祐三《郵便配達夫》1928 大阪中之島美術館(背景はワグナーのコンサートのポスター)

 

ゴッホのファンなら、彼が南仏のアルルで1888年に描いた、《郵便配達人ジョセフ・ルーラン》に酷似しているのにも気づかれるだろう。ゴッホに私淑した佐伯のオマージュのような作品だ。佐伯の米子夫人によると、モンパルナスの自宅に現れたこの郵便配達夫に、病床の佐伯が頼み込んでその場でモデルになってもらったのだという。ところが、夫人もこの白いひげの配達夫をその後2度と見ることは無く、ひょっとしてあの人は神様だったかもしれない、と後年述懐している。ならばこの人はゴッホが、自分と同じく失命をかけて絵と格闘しついには若くして亡くなる佐伯の運命を憐れんで、あの世から絵を描かせるために遣わしたモデルかも知れないなあと、僕は想像を足してみた。

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フィンセント・ファン・ゴッホ《郵便配達人ジョセフ・ルーラン》1888ボストン美術館 

 

さて、佐伯作品は大阪中之島美術館の中核的なコレクションをなすが、佐伯祐三は大阪・中津のお寺の次男坊として生まれた。長じて現・北野高校から東京美術学校(現・東京藝大)に進む。学生時代に結婚して女児をもうけ、卒業後には妻子を伴ってパリに絵の勉強に出かける。当時の1920年代のパリは第一次大戦のあと、芸術の都として繁栄の頂点を極め、国内外の天才たちを引き付けていた。ちょっと例を挙げても小説家ではヘミングウェイ、詩人のコクトー、音楽家はサティ、ファッションはシャネル、画家ではピカソなどなど百花繚乱の様相を呈していた。佐伯はそんな沸き立つパリに家族を帯同してやってきた。

 

そして着いた年の夏、先に留学していた先輩に伴われて、彼が師と仰ぐモーリス・ド・ヴラマンク(1876-1958)をオーヴェール・シュル・オワーズに訪ねる。この地名は美術ファンならピンとくるかもしれない。ゴッホが南仏の精神病院を出て予後を養うために転地し、ピストルによる自死を遂げるまでの70日間を過ごした、パリ北郊の終焉の地である。ヴラマンクもまたゴッホに私淑する画家だったのだ。佐伯は批評を乞うために自作を持参するのだが、その絵を見たヴラマンクから「アカデミズムだ!」と怒声の叱責を食らい、ショックを受けた逸話は良く知られる。

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ヴラマンク《雪の村》1930

 

ヴラマンクゴッホと同じく、正式な美術教育は受けず、生得のエネルギーで色をカンバスにぶつけ、激しい筆のストロークで時に重く時に清澄に、画家の内面を自分の流儀で外在化して描いた人だ。佐伯の作品がヤワで教養で作られた借りものであることを即座に見抜いたのかもしれない。

この事件は、野獣派(フォービスム)の旗手、ヴラマンクによる西洋の洗礼で、日本人としてどう西洋美術を受け入れ自己形成するのか、佐伯にとって苦難の道の出発点となった。その歩みがその後どう結実したのか、佐伯の畢竟の傑作を次回ご紹介しよう。佐伯はヴラマンク訪問の翌日、同じオワーズ村にあるゴッホの墓を家族で詣でている。

 

開館記念「超コレクション展 99のものがたり」(大阪中之島美術館)は3月21日まで。大阪中之島美術館 | 大阪府の美術館 | 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ (artagenda.jp)

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ