「白」の反逆――ユトリロや藤田嗣治が試みた色の挑戦

5月27日の大阪中之島美術館における小生の美術講演会は、定員100名の聴講者と8名の美術館関係、メディア関係者をお迎えし、好評裡に終えることができました。感染対策のための人数制限で、心ならずもお断りした方には申し訳ありませんでした。ご参加の皆さまや多くの関係者の方々に改めて御礼申し上げます。

 

■「白」の反逆――ユトリロ藤田嗣治が試みた色の挑戦■

 

大阪中之島美術館の開館特別企画の第2弾は、モディリアーニ展。紹介記事の最終回は、エコール・ド・パリのユトリロやフジタ(藤田嗣治)というふたりの「白の名手」にフォーカスしてみようと思います

 
ゴッホ《ジャガイモを食べる人々》1885ゴッホ美術館 タンギー爺さん》1887
ロダン美術館 ゴッホ作品は展示されていません)

ドラン《コリウール港の小舟》 1905大阪中之島美術館 

 

近代絵画の色の歴史は、ゴッホが浮世絵の影響を受けて色を爆発させたことに始まると僕は考えています。それがどのような曲折を経て、ユトリロやフジタの「白の時代」を迎えるのか。ゴッホはオランダ時代、左上のような暗い絵を描いていたのが、パリに出て浮世絵に出会い、まるで極楽のような色使いに目覚めます。同一人には思えないくらいの激変!教養もあり、感受性も並外れた容量を持っていたゴッホは、キリスト教的でない新しい天国を発見し、すっかり心酔し受け容れたのです。色を現実の説明役という苦役から解放し、色は色で遊んでいい、というきっかけを作ったのは、ゴッホの美術史への大変な貢献と言うべきです。

 

さて、このゴッホに強く影響を受けたのが、20世紀初めの野獣派(=フォービスム)のドランやマティス。上のドランの港の絵は中之島美術館の所蔵で、今展にも出品されて見ることができます。色彩が獰猛に咆哮しています。溺れたくなるくらい魅力的な絵ですが、同時にこうした外向的な色彩の氾濫が頂点に達し、過熟から崩壊の過程も示しているように思えます。色の洪水の後は、美術界のトレンドは勢い、内省や秩序の模索へと向かい、「白」が発見されることになるのです。

ユトリロ《ラパン・アジール》1913大阪中之島美術館 藤田嗣治《タピスリーの裸婦》1923京都国立近代美術館

 

本来、「白」は無色と思われがちで、ほかの色たちからすると主張しない控えめな色とされてきたかもしれません。ところがどっこい、この二人は目立たない役者のような白を抜擢して主役に据え、ドラン、マティスらの「野獣派」による色彩の氾濫の時代を上書きしたのです。それは新しい時代精神を表現しようとする、画家としての野心的な挑戦でもありました。

 

ユトリロの好きな方は多いと思います。同じエコール・ド・パリの中にあっても、シャガールのような村落の共同幻想とは対極的に、孤立し自立せざるを得ない都会人の寂寥を、白を多用したクールな画調で表現していますね。人を構いすぎない空気感が、逆に自由で心地よい、いわば人の孤独を慰める絵になっています。絵画の新しい役割です。

 

また、フジタの場合、エロティックな浮世絵のような密室世界を「白」で表現しています。苛烈な大戦のあとで、引きこもりのカプセルを繭のように作って、エロスを頼りに生き延びる空間を確保し、表現したのだとも思えます。ちなみに、フジタは日本の面相筆による正確な輪郭のスケッチと陶器のような滑らかな肌の再現で人気を博しました。和光堂の「シッカロール」を絵の具に混ぜていたそうです。ティツィアーノルネサンスの伝統的ヌード画と、日本伝統の浮世絵をうまく融合させているのも見どころです(モディリアーニ展の項、完)。

印は今展で見ることができる作品です。

モディリアーニ――愛と創作に捧げた35年――は7月18日(月・祝)まで

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ