【大阪中之島美術館 「佐伯祐三-風景としての自画像」】  ③ 《黄色いレストラン》

【大阪中之島美術館 「佐伯祐三-風景としての自画像」】

 ③ 《黄色いレストラン》

 

この《黄色いレストラン》は佐伯の絶筆で、遺言になるのかもしれません。1927年に家族と再度の渡仏を果たした佐伯は、翌春、パリ近郊へスケッチ旅行に出かけ、寒雨の中でのハードワークがたたって入院し、そのまま病床に伏すことに。同年8月、佐伯は異国の病院で30歳の短い人生を閉じます。

佐伯祐三《黄色いレストラン》1928 大阪中之島美術館蔵

僕はこの作品に、彼の日本人画家としての格闘の跡がすべて記録されていて、過不足のない完成度を持っているように感じます。順番に技法を見ていきますと、まず黒い太い輪郭線はヴラマンク譲りのものでしょう。最初に渡仏した時、佐伯はフォービスム(野獣派)の大家のもとに自信作を持って、指導を仰ごうと訪ねます。その折の有名な話ですが、ヴラマンクに「アカデミズム!」と叱責を受けたわけです。僕なりに意訳すると、「人真似のスタイルで上手く描けても意味がない、それより自分の流儀を発明しなさい」ということだったと思います。それでもヴラマンクに心酔する佐伯は、フォービスム風の絵をしばらく描いていましたが、所詮それは彼の体質に無いもの。もと競輪選手のマッチョな画家と佐伯は違い過ぎました。

 

失意の佐伯がフォービスムと別れ、次に好きになったのはユトリロです。異国での疎外感やデラシネを感じていた佐伯にとって、世捨て人のような彼の閑寂な絵は心をおおいに慰めるものだったはずで、模倣もしました。ただ、佐伯はユトリロの「白」は取り入れたものの最後に遠近法は捨てています。この絵でも、ポスターをはじめ、扉の上の壁やスカートなど、白色が効果的にグラフィックに配分されていて、ユトリロ研究の成果を認めることができます。

 

では佐伯独自の平面的な画法やカリグラフィはいったい誰の影響かというと、繰り返しではありますが、自身が受け継いできた琳派や浮世絵のフラットな画法の遺伝子そのものではなかったか。異国での遍歴が、美意識の伝統を発見させたのでしょう。佐伯はヴラマンクユトリロを受け継ぎ、それを日本の伝統的な平面感覚のなかに溶解し、余人の及ばない独自の風景や肖像のスタイルを確立したと言えます。

 

1920年代のパリは、世界中から画家たちが集まり、芸術が花開いた時代です。シャガールはロシア、キスリングはポーランドモディリアーニはイタリアと、故国の文化を持ち込み、パリと混血することで次々と傑作を生みだしていたのです。日本の佐伯もまた同様で、完成度の高さと斬新性を鑑みれば、エコール・ド・パリの重要な一員として、再評価がなされてしかるべきでしょう。

 

なお、この絵の意味を、佐伯が扉の向こうに待ち受ける冥界を象徴して描いた、との人生論的解釈もよくなされます。死の数か月前の作品だし、物語性があって分かりやすいですが、ただ僕はそこまで重く考えません。佐伯は自由にパリの風景を視覚でとらえ、軽快に線と面と色に分解整理し、そのうえで抽象絵画のような世界に再構成していると感じます。佐伯はまだ先に進もうとしていたのです。それだけに早世が惜しまれます(佐伯の項、これにて了)。

 

大阪中之島美術館 「佐伯祐三―自画像としての風景」は、2023年6月25日(日)まで

 

岩佐倫太郎 美術ソムリエ/美術評論家