■琳派を生んだのも育てたのも実は徳川家康だ!誰も言わない美術史。その②■

関ヶ原を戦い、大坂夏の陣を経て天下を確たるものにした徳川家康にとって、残す最大の野心は、わが血を皇室に入れて皇族の一員になることです。前回も書いたように、そのためには孫娘の和子(まさこ)をどうしても後水尾天皇に嫁がせたい。子供ができれば、息子・秀忠は外祖父と言う立場になります。そうなった暁には政権は盤石なものになりますからね。そんな思惑でパンパンに膨らんだ徳川家の野望。思惑通り和子の入内が実現したのは、申し入れて6年後でした。

                          

和子の父は2代将軍の秀忠、母は浅井3姉妹の末っ子、お江(ごう)です。お江は2度の結婚を経て、秀忠の継室となり、和子を生みます。和子は徳川歴代の中でも最もお金に不自由しなかった時代に育ったお姫様だけあって、皇室に入ってからも大変な着道楽。次々と季節ごとにお金に糸目をつけず毎年着物を新調いたします。たとえば、東福門院=和子から延宝6年(1678年)の前半の半年だけでも、なんと発注が総計340点あったという記録が残っています。支払い金額を僕が現代に換算してみると、およそ2億円になりました!驚きます。

そしてその発注先は光琳・乾山の実家である「雁金屋」でした。というのも、雁金屋は先祖をたどると元は浅井の藩士。それが京に移って呉服屋を始めた。和子にしてみれば、母のお江の時代から浅井の縁で贔屓にしていた呉服商でもあり、そのまま引き継いで無理もわがままも効いたんでしょう。彼女は都のファッション・リーダーとなり、社交界では皆こぞって和子のマネをし、競っておなじ雁金屋に注文を出すと言ったことが行われた筈です。

結果、雁金屋は繁栄を極め、光琳は父が亡くなったとき、多大な財産を相続します。不思議なのは、光琳が絵を描き始めるのは30代も半ばを過ぎてからのこと。家督は兄が継ぎますから、156歳からの20年間を、いったい何をして暮らしていたのか。長すぎる謎のモラトリアム期間です。おそらく、小さい時から困らないお金で趣味的生活を続け、仕事らしい仕事もせず、蕩尽のかぎりをつくしていたのでしょう。

 

天才は一体どのようにして誕生するのか?光琳は確かに本阿弥光悦の末裔で、芸術的天分の血筋を引いていますが、環境も大きい。家家の店先に溢れる呉服のデザインや色彩の美しさを幼い時から空気のように吸い込み、デザイン・カタログである「雛型帖」などにも親しんだ筈です。そのうえ、子供のころから能や絵画など、富裕な商家ゆえの文化教育がなされています。それに加えての長い放蕩時代。運命は実に迂遠で緩やかな時間の流れと財力の蓄積を準備しながら、日本の美術史上に輝く天才を、条件を一つ一つ積み上げて、終にこの世にひとりの天才を産み落としたと思わないではいられません。

 

以上、徳川の財力が天才・光琳を作ったことを書きましたが、さらに重要な驚くべき事実を僕は発見しました。琳派の誕生の最初から、実は徳川が深くかかわっていたのです。それは和子入内の豪華絢爛なパレードに隠されていました(来年につづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ