誰も言わない琳派美術史その⑥。鷹峯光悦村の地政学とレイアウトの意味

「鷹峯光悦村ってどの辺にあるんですか?」とよく聞かれます。「京都の北西の隅ですよ」とか「金閣寺の北」とかお答えしています。ともかく秀吉が都市城壁として築いた「お土居」のまだ外側にあるんですから、随分と辺鄙です。

 

ここが言われるような芸術村などでは無くて、2代将軍=徳川秀忠5女、和子(まさこ)の皇室への嫁入り道具を製造する秘密工場だ、というのが僕の自説で、本阿弥光悦はその工場長というかプロデューサーとして白羽の矢を立てられたのだ、と断定しました。なぜか?徳川家にしてみれば、嫁ぐ娘の宮中生活に対応するすべての調度を膨大に用意するだけでなく、もう一つの目的である入内の一大パレードのための衣装、武具、楽器なども大量に準備しないといけない。その物量をこなすだけでなく、品質も最上級が当然求められる。家紋のデザインの配置ひとつとっても格式がきちっと守られ、宮中の年中行事や有職故実に適合する必要があるわけです。ところが武門の出の徳川家はその辺はあまり詳しくない。しかし、今や朝廷に並びかけようかという時に、万一にも「所詮は関東の武家のがさつ者よ」、などと軽んじられるようなことがあってはならない。

 

徳川家は考えたはずです。いったい誰に任せれば、多くの家具・工芸分野にまたがる職人をコントロールして工程を調整し、しっかり品質管理し、朝廷のしきたりに適合する嫁入道具を作れるのか。そう考えたとき、皇室とも行き来があり、宮中の諸行事に通じて、工芸デザイン全般に目が利き、かつ職人の棟梁として重しの効く、と言った条件をすべて満たすのは光悦以外には居なかった。幕府が光悦に土地のみならず扶持まで与えたのは、決してパトロン気分で芸術家を厚遇したのではなく、一族、工人を率いて世紀の一大プロジェクトを絶対に成功させよ、という苛烈な命令を納得させるためのプロデュース・フィーであったと考えた方が、腑に落ちませんか。

 

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さて、上の敷地図をご覧ください。全体では8万坪の土地に55軒の家が並びますが、中心部だけアップしました。真ん中の道路は、「通り町すじ」とあって、道路幅50メートル近くはありそう。北の突き当りはT字路で西側は谷なので、うまい具合に余計な人眼を避ける立地になっています。この道路は、下へ南下するとそのまま千本通りにつながり、何と徳川家の二条城の西端と直結します!仕上がり品をお城へ納入する最短の高速道路です。

 

レイアウトを見てみると、近代工場などのそれと似ています。原材料の運び込みや搬出を考え、敷地内に幹線道路が走り、部品工場が軒を並べています。つまり流れ作業を想定した配置です。光悦の家が中心にあって大きいのは、棟梁で偉いからではなく、ここを最終のアッセンブリ工場にして目を光らせていたのでしょう。光悦のそばに住む弟の宗知や養子の光嵯の役割は、片方が絶えずお金の出入りを管理する出納係、もう一人が材料や仕上がり品の出入りを管理するロジ担だった、と見るのが妥当です。他人には預けきれない仕事上の急所ですから、超身内で固めたのでしょう。さあ、それでは対面に宗伯および茶屋四郎次郎を配したのは何のためなのか。次回に(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家  

 

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