5層の天守の威容を誇る二条城だが、隠された徳川の政治的意図は何か②

わがニューズレターの読者の皆さんは、「パノプティコン」をご存知だろうか。聞き慣れない言葉かもしれないが、これはイギリスの哲学者、ベンサムが発明したユニークな形の「監獄」のことで、一望監視施設などと訳されます。構造的には囚人の独房がズラリとドーナツ状に並んで、中心にはすべての部屋を見張ることが出来る監視塔が立ちます。

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パノプティコン型の刑務所の例(キューバ)内部は現在、は記念館として公開 

 

最大の特徴は、独房からは塔の中を見れず、囚人は塔に監視人がいてもいなくても四六時中見張られている気分にさせられる点。囚人は絶えず監視の目を気にするうちに、ついに自分で頭の中に支配者を複製し、自主的に規律正しく振舞うようになってしまうという、笑えない一種の自己矯正装置です。何やら近年の日本の政権とメディアの関係みたいです!ところで、僕の言い分はもう読者諸兄姉にはお判りですね。二条城(の天守閣)の究極の目的は、徳川幕府が常時監視しているぞと朝廷に分からせるためのパノプティコンと同じではなかったか、と言うわけです。下の屏風絵は創建時のもので、家光の時代に天皇行幸のときに場所を少し変えて作り直されますが、5層の天守が何の役目であるかはここでも充分に分かります。御所はこの城の斜め右下辺り、ごく至近にあるんですから。

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富山県勝興寺が所有する洛中洛外図六曲一双のうち左隻の部分(高岡市美術館に寄託) 筆者は狩野探幽の父である狩野孝信およびその周辺の絵師とされる

 

さて歴史をもう一度さかのぼると、家康は関が原の戦いから3年後の1603年、伏見城を修復してそこで朝廷から征夷大将軍の宣下(承認)を受けます。その1ヶ月後に二条城が完成しているので、始めからそちらでやれば、と思ってしまうのですが、そこにも家康一流の戦略がある。伏見城は秀吉ではなく今や徳川が支配する城であると、京都の朝廷や公家、大名などに見せつけ、マインドのリセットをぜひともやっておきたい。そうしておいて2年後の1605年には、子の秀忠に将軍職を譲ります。今度の宣下は二条城。徳川家の世襲を既成化して付け入る隙を与えない迅速な作戦ですが、武功の面では今いちパっとしない息子を、皇居に並び立つ二条城で天下にデビューさせた訳です。                                 

数々の徳川家の権勢史を彩る二条城ですが、中でも洛中での最高の栄華のシーンというと、1620年に秀忠の子、和子(まさこ)が二条城から皇室へ入内を果たしたときと、その6年後に後水尾天皇による二条城への行幸が実現したときです。いずれも絢爛かつ威儀を正したページェントでした。パレードで輿(こし)を引くのは牛車。圧倒的財力を貴顕に見せ付け、西国大名たちをも畏れ入らせるのが目的なので、歩みはのろいほうが好都合。伏見のように10キロも離れた南方からでなく、二条での城の立地は、計画魔の家康のことですから生前に、こうしたパレ―ドすら構想して成されたのでしょう。

                         

後水尾天皇行幸には、おそらく徳川の有無を言わさぬ要請があったはずです。不承不承ながらも金持ち妻の実家の誘いなので気を許してか二条城を訪れ、5日間にわたる盛大な饗応を受けています。その最後で天皇は二条城の孕む悪意に気づき、胸が悪くなり卒倒しそうになったのではないか・・。最後の次回は、僕の小説家的な想像を開陳します(つづく)。

 

ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎