エル・グレコ《受胎告知》の美しさは、ミロのヴィーナスと同じ究極のギリシャの美だ。

■【はじまり、美の饗宴展 -すばらしき大原美術館 コレクションー国立新美術館】■

 

 

大原美術館岡山県倉敷市の大実業家、大原孫三郎が同郷の画家、児島虎次郎を支援しな

がらコレクションを進め、1930年に設立した西洋絵画の美術館です。美術鑑賞の目を養う点で

も実に優れた標本性があり、画家ならではの目利きによる選択の良さも特筆されます。

その館の至宝ともいうべきコレクションがいま東京に運ばれて、六本木で展覧中。中でも最大

の目玉は、エル・グレコの《受胎告知》。これはもう日本にあるのが奇跡のような作品です。

エル・グレコはグレコの名が示す通りギリシャ人。16世紀に生まれ、若くしてヴェネチアに、つ

いでローマに出て修行し、スペインで大成しこの国で生涯を送って人です。 

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エル・グレコ《受胎告知》 1590年頃 - 1603 / 109.1 × 80.2 cm / 油彩・カンヴァス大原美術館所蔵  

 

                      

上の絵の見どころは、まず色彩。古格で重量を持ったビザンチン的色彩(ヴェネチア風とも

言えます)が速度をもって衝突しています。マリアの服の赤のぬめっとした分量感。緑の上

衣と赤とは補色の関係。受胎を告げる大天使ミカエルの着衣は、もとは金色でしょう。黒い

背景は神の啓示にバカっと割れて、すざまじい黄金の光が飛び散る。ひと昔まえの静謐な

受胎告知図とは一線を画し、現代アニメやコミックのセンスさえ含まれ、実に前衛的です。

構図的には、絵の中に3つの翼があるのも見どころ。白い精霊としての鳩の翼、次いでミカ

エルの翼。見落としてならないのは、マリアの上にある黒い巨大な翼の影です。もしこの大

きな翼を思わせる雲がなければ、グレコの幻視のような絵画はここまでインパクトを持ちえ

なかったことでしょう。

                              ●

さてここで、僕が一番語りたいのは、図像学的解説ではなく、この絵の持つギリシャ的伝統

美についてです。今までたぶん誰も言わなかった、マリアの肢体の絶妙なひねりに含まれた

人体造形の美しさです。マリアは右脚を左脚に乗せているのにお気づきでしょうか。書見台

に向かって聖書を読んでいたマリアが奇跡のお告げを感得し、下半身はそのまま、上半身

捻り、さらに顔はもっとひねって大天使を見つめる――

なかなか美しい人体のポーズの発見ですが、よくよく思い出してみると、立つと座るの違い

はあってもこの美しさって、古代ギリシャのミロのヴィーナスそのものではありませんか?

片足に重心をかけS字型に体をひねって、動の中の静の一瞬のポーズを取るところに究極

の理想美が表現されています。有名な円盤投げの彫刻などもそうですが、ギリシャ人はもと

もと人体こそが美の基準との美学を持ち、こうした動的モデリングの能力はピカ一でした。

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ミロのヴィーナス 1820ギリシャのメロス島で発見 大理石製 高さ203cm ルーブル美術館所蔵

 

そういうつもりでこの作品を見ていただくと、ギリシャ発の西洋美のDNAが、グレコを通じて

2千年近いのちスペインで発現したとも考えられます。グレコはルネサンスの整形美など

軽々と受け止め、次のバロックの時代をも越える創造を行い(早すぎた!)、後年のセザン

ヌやピカソの近代を呼び出した、とてつもなく時間の射程の長い天才ではなかったか。そん

なことを考えさせる実に貴重な作品でした。

 

 【はじまり、美の饗宴展 -すばらしき大原美術館 コレクション】

東京・六本木の国立新美術館にて44日(月)まで

(民芸の陶芸、棟方志功などの日本の絵画も展示)

 

 

 

 ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎 

 

 

家康が光悦に与えた鷹ケ峯・芸術村。隠された謎の使命とは何だったのか③

 

この贅を尽くした壮大なイベント装置の一式は、たとえば牛車にせよ、パレードの装束、

楽器など、すべて合わせるととんでもなく膨大な量のはずです。ましてや入内の家具、

衣装類ともなると、ことのほか豪奢を極めたことでしょう。

いったいこれだけのものを誰がどこでどう作ったのか?こんな疑問が浮かんできます。

この時期の江戸ではまだそこまで技術があると思えないし、京都のしもた屋程度では、

小さなアクセサリーくらいしか作れないだろう。婚儀にはまずは牛車が数多く要る。車

輪も轅(ながえ)も最良の材料を一から入手してそろえたい。そこに輿の制作や漆塗り、

金細工、組みひも、布織りなども加わり、もうそれだけでも一流職人のワンセットが要り

そうです。ほかにも、盛儀のための刀剣や牛馬を飾るオーナメント、引き出物などなど。

ちょっと思いつくだけでも広い作業場、大勢の職人、多大な時間が必要に思います。

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上段の右、2頭の牛に曳かれるのが秀忠の息女・和子(まさこ)の乗る牛車。葵の紋が見て取れるだろうか。

 

しかも物量に対応するだけでなく、デザインひとつとっても宮中の年中行事や有職故実

に合致する必要がある。ところが武門の出の徳川家はその辺は得意ではない。しかし、

朝廷に並びかけようかという時に、「所詮は武家のがさつ者よ」、などと思われ恥をかく

ようでは困る。

徳川家は考えたはずです。いったい誰に任せれば、多くの家具・工芸分野にまたがる

職人をコントロールして工程を調整し、しっかり品質管理し、朝廷のしきたりに適合する

嫁入道具を作れるのか。そのとき白羽の矢を立てた人物とは、朝廷諸行事に通じて、

工芸デザイン全般に目が利き、かつ職人の棟梁として重しの効く本阿弥光悦以外にな

かった、と考えるのはどうでしょう。

                                       ● 

もうここまで書けば皆様お見通しですね。光悦村は和子入内の嫁入道具とパレードの

用品の一切を作るため、家康が土地を支給したファクトリーであったと。そしてマルチプ

ルな天才、光悦はその一大プロジェクトの総合プロデューサーであったと。そう考えると

すべての事が腑に落ちてきます。なぜ、いっせいに移住したのか。なぜ、光悦に扶持ま

で与えたのか。扶持は全体の組織化と監修の対価、つまりプロデュース・フィーでしょう。   

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後水尾天皇1596-1680 中宮和子1607-1678 二人の間に生まれた女一宮がのち女帝、明正天皇となる

 

 

実は朝廷への入内は既に1614年に家康から要請したものですが、天皇の抵抗に会っ

た。またその間に夏の陣や後陽成院の死去、家康自身の急死などもあって、実現まで

6年もかかっています。当初の家康の思惑では、23年くらいではなかったか。として逆

算すると、工場敷地を確保し(光悦村は89万坪)、材料を集め、職人をセットで定住さ

せ、わけをよく知った棟梁のもと、工程管理しながら集中生産を急がないと間に合わない。

しかも徳川家としては入内の応諾がまだもらえないため、嫁入り道具一式の製作を目立

たせたくなかった。仮にも洛中などで発注したら、たちまち人目に触れ、口さがない京童

(きょうわらべ)の格好の話題にされるのは必至。

                           ●

とまあ以上のような諸要件をすべて満たすソリューションとして、歴史の必然から産み落

とされたのが鷹が峯の光悦村だった――というのが僕の推論です。琳派の開祖=光悦

は、家康の恩顧で得た土地で晩年は自由に書画を楽しみ、土をひねりして悠々の人生を

過ごしました、などと言う話とは、だいぶ違うストーリーが見えてきましたちなみに鷹が峯

の土地は、光悦没後、幕府に返上されます(この項、完)。

 

参考文献;

・「新発見 洛中洛外図屏風」 狩野博幸 青幻舎刊 (大江戸カルチャーブックスのシリーズ)

・「後水尾天皇」 熊倉功夫 岩波書店 同時代ライブラリー

・「wikipedia」の当該項目ほか

 本の画像著作権提供;青幻舎(京都市) 

 

ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎 

 

家康が光悦に与えた鷹ケ峯・芸術村。隠された謎の使命とは何だったのか ②

二条城の成立を調べていて、この城がよくあるように既存の城を修改築したのでなく、

関が原の戦いの翌年に二条の堀川右岸の民家数千軒を立ち退かせて新築したことも

わかりました。とすれば、その人たちはどこへ行ったのか?補償金などあったのか?こ

の辺の記録は、僕の見た範囲ではまったく見当たらない。ひょっとして強制立ち退きに

あった職人たちからの不満がくすぶったので、不穏な火種になる前に鷹が峯に転地さ

せて補償したのか、とも想像してみました。

                  ●

自説ではありますが、この3番目の説も蓋然性として無くはない。しかしいくつかの点で

問題があります。家康は絶対的な独裁者です。今の北朝鮮のように。なので立法も司法

も意のまま。それがそこまでお人好な振る舞いをするものだろうか。しかも立ち退きから

15年経ってますから、本当に補償するなら、タイミングとしても遅過ぎる。それに何より、

なぜ本阿弥光悦が代表格で鷹が峯に移らなくてはならなかったのか、と言う疑問です。

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徳川家康1543-1616  徳川幕府1603年に開く   本阿弥光悦15581637 安土桃山から江戸の芸術家

 

刀の鑑定や研ぎを家業とする彼の実家は今出川の北にあって、二条城の敷地にはまっ

たくかかっていません。と言うことで、どうも転地補償説も説得力が弱い。では、いったい

鷹が峯の芸術村は何のために、この時期に、光悦と言う人物を選んで作られたのか?と

言う本題に戻ってしまいます。 通説では、光悦が天皇と近かったために家康に忌避され

郊外に出された等ありますが、ならばそんな人物になぜ扶持(サラリー)まで与えるのか。

法華宗の信徒村を作ったなどと言うのも ちょっとムリがある気がします。  

                          ●

この問題を解くカギは、徳川秀忠の息女、和子(まさこ)の後水尾天皇への入内

にある、と気づきました。そう閃いたのは、ある一冊の本を見たときです。

「新発見 洛中洛外図屏風」(青幻)、狩野博幸著。この本は最近発見された

屏風画の解説なんですが、1620年、和子(まさこ)が二条城を出発して御所へ

嫁いだときの豪華絢爛なパレードの模様を、克明で達者な筆遣いで描いています。

資料としても美術としても一級のものです。歴史上、武家の娘が入内するのは

平清盛の娘いらい。それ故、徳川家としても力が入り、これを機会にもはや戦国

の覇者ではなく絶対王である、とのイメージも植え付けたかったんでしょう。外

戚として天皇家の一員となれるし、子供が出来て天皇に即位すれば、秀忠は天皇

の外祖父に、家光は天皇の伯父になる野心もあったに違いない。

 

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この絵では和子に続く6台の牛車の一部が見える。絢爛かつ威儀を正したパレードは京雀を驚かしたはず

 

屏風絵の本をつぶさに見ていきました。先頭はもう御所に着いているのにまだ二

条城を出ていない列もあるといった、延々たる行列。荘重かつ祝賀感に満ちた屏

風画の中心的存在は、和子の乗るひときわ大きく華やかな、葵の紋を散らした2

頭立ての牛車です。輿のひさしは唐破風(からはふ)に仕立てられ、贅を尽くし

て車輪や牛が引く轅(ながえ)も漆と金箔に彩られ、美々しく着飾った供奉者を

引き連れる。輿を先導するのはエキゾティックな装束の奏楽隊や公家たちの輿や

駕籠の列。和子の後ろに従うのは、これもまた華麗な6台の牛車。美しいカバー

をかけた嫁入り道具の長持ちを担ぐ荷役たちも何十組もいるのが見て取れます。

実はこのパレードが鷹が峯の光悦村の誕生とつながってるんです(明後日発行の

最終回に続く)。

「新発見 洛中洛外図屏風」 狩野博幸 青幻社刊 本の画像は青幻舎提供

 

ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎 

 

 

 

家康が光悦に与えた鷹ケ峯・芸術村。隠された謎の使命とは何だったのか ①

昨年の2015年は琳派400年にあたるので、全国の美術館が呼応しあって同一テーマで

収蔵品などを公開しました。僕も東京では根津美術館光琳の《杜若図》や《紅白梅図》

(熱海MOA美術館所蔵)の国宝を見たのを皮切りに、箱根の岡田美術館では宗達、光琳

の優品を堪能し(※)、夏は諏訪のサンリツ服部美術館で念願の光悦の国宝の白楽茶碗、

銘《不二山》を見ることができ、秋の京都では国立博物館で久々に宗達・光琳・抱一の

風神雷神図》の3点が一堂に会したのと再会しました。粒ぞろいだったし、眼福な1

でしたね。話はちょっと飛躍しますが、今度の2020年の東京五輪でも、オリンピック憲章

にのっとって、ぜひこのような文化プログラムを展開し、日本の美意識を発信すべきです。   

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尾形光琳 雪松群禽図屏風(せっしょうぐんきんずびょうぶ) 江戸時代 岡田美術館 (箱根)

 

それはそうと、琳派の起点とされる光悦村のことです。いったい光悦村とは何だったのか?

はじめ僕の理解は、大坂夏の陣が終わって平和の時代のパトロンとして家康が芸術村を

作った、という単純なものでした。家康=フィレンツェメディチ家のような見方ですね。多く

の方もそういう理解でしょう。記録にも「光悦が洛中に飽きて辺土への移住を希望した」、

それを家康が聞き入れ、領地を鷹が峯に拝領させ、扶持も与えて待遇とした、とあります。

なかなかの美談であり、徳政のイメージですが、やにわには信じがたい。苛烈なリアリスト

の家康にそんなメセナ精神などはまったく有るまい、と思い直し最初の考えを捨てました。

それに職人仲間だって、洛中にいてこそ仕事を受けたり御用聞きが出来るのではないか。

                         ●

 

で、次に考えたのは、芸術村は新政権の人気取りの広告塔であると言う視点でした。家康

も秀吉の北野の大茶会や醍醐の花見のやり方を見ならって、ポピュリズム即ち人気取りの

広報戦略として、今日の博覧会のようなつもりで鷹が峯の光悦村を開かせたのではないか。

それによって朝廷や公家や町衆に、今や徳川へ世が変わったのだとマインドセットを切り替

えさせ、秀吉恩顧の西国大名たちをも財力でひれ伏させ、お家再興などと言うくすぶる野心

を未然に防ぐ、そんな魂胆かな、と思い至りました。

                         

たしかに鷹が峯と言う土地は、秀吉がめぐらした「お土居」といわれる京都市中を囲う塀から

まだ北に外れた僻地です。安いコストでイベントによる政権のプロパガンダ!一応納得性が

あります。僕もそう書きましたし、半分は当たっているでしょう。しかし何かリアリティを欠いて

いる、というか身体性に欠けている気がする。歴史の歯車はもっと重い欲望のようなものでし

か廻らないのだ、と自説ながら疑義を呈した。その後、二条城を調べているうちに、それまで

に思いもよらなかった考えが天啓のように僕の脳裏に飛来したのです。それは何か。あと2

回お付合いください(つづく)。

 

(※)琳派400年記念  箱根で琳派 大公開 第二部 開催中   岡田美術館  201643日(日)まで

http://www.okada-museum.com/

 

ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎 

 

生誕110年 村井正誠展 ひとの居る場所  【和歌山県立近代美術館】

日本の抽象美術は、「具体」の白髪一雄や元永定正が人気急上昇だが、こんな先人もいた。

 

□■ 生誕110年 村井正誠展 ひとの居る場所  【和歌山県立近代美術館】  ■□■

 

年が明けてまもなく、和歌山市へ出かけました。もう何十年ぶりかもしれなかった。

目的は表題の画家、「村井正誠(むらいまさのり)展」を見るためです。

美術館の立地はご覧のように堂々たるお城のそば。設計は今は亡き黒川

紀章先生。お城に負けてはならじと髭剃りのむき出しの刃のような軒の

連なりが道路(堀のあと?)を挟んで対峙する、力のこもった建築です。

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 和歌山城。石垣の見事さはさすが。天守閣は戦災後に復元したもの。

 

さて、村井は和歌山県新宮市に育った医者の息子で、早くも1928年に

パリに留学して当時のヨーロッパ美術の潮流に触れ、日本にその成果を

持ち帰っただけでなく、後進の教育にも務めた抽象絵画の先駆者です。

                      

ふつう抽象画と言うと、多くの人は戦後の具体美術協会19541972

などが始まりのように思っているかもしれません。たとえばアクション

ペインティングで知られる白髪一雄やユーモアある浮遊感のタッチで知

知られる元永定正です。特に白髪は天井から吊るしたロープにつかまり、

足の裏で絵を描くという破天荒な方法で世間に衝撃を与え、近年はとみ

に国際的評価を上げている作家です。スターバックスのシュルツ会長が

作品を自分のオフィスに飾っていることやサザビーパリのオークション

で最近5億円以上の値がついたことでも話題になりました。 

 

 

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白髪一雄 《作品Ⅱ》1958   元永定正 《ヘランヘラン》1975   いずれも兵庫県立美術館

平成20 年度 コレクション展より

 

それはさておき、村井正誠がパリに出たのは第1次世界大戦が終わって10年ほど

経った、年齢的にはまだ20歳代前半でした。その若き眼が見た当時のパリの画壇

はというと、モネが数年前亡くなり、ピカソキュビスムを経てシュールレアリスム

進み、藤田嗣治などエコール・ド・パリが全盛、そして抽象画が勃興した時代でした。

                         ●

その中で、村井が一番影響を受けたのはマティスではなかったかと、今回の展覧会

100点にのぼる作品を見て思います。マティスの持つ安穏で官能的な世界観や、

浮世絵に影響された遠近感の無い平面的な描き方、濃密な色使いなどがことの他

しっくり来たんではないか。彼は始め殆どマティスふうなタッチで絵を描いています。

 

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村井正誠《パンチュール3》1934  《自画像(太い線)》 1974 いずれも和歌山県立近代美術館蔵

 

生涯マティスに私淑した人なんでしょう。それ故、マティスが晩年の「切り絵」で抽象

に移行したのに呼応して、戦後、抽象絵画へ進んだ時も迷いは無かったはずです。

ほかに画家で影響を受けたのは、知的で温和で構成主義的なモンドリアンでしょう。

逆にカンディンスキーなどは、くどくて苦手だったかもしれません。

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村井正誠 《聚落》 1941年 これなら抽象画は苦手と言う人も理解できる? 和歌山県立近代美術館蔵

 

遥かな歴史を振り返れば、人類が絵を描いた最古の記録は4万年も前の洞窟画。

有名なアルタミラの洞窟の絵なども何と1万5千年も昔のこと。それ以来ずっと人

類が描き続けてきたのは、具象画です。なので21世紀初頭の抽象画の発明は、

人類がロケットで月面に降り立ったくらい劇的な、20世紀の大事件といえます。

日本の抽象画がいまや「具体」などのように、国際的に第一級の高い評価を享受

するのも、村井正誠や、やはり同時代パリにいた山口長男(たけお)、シベリア抑

留から帰ったオノサトトシノブらの先駆的活動があってのことでしょう。山口長男に

ついてはまた、機会を見つけ改めて書きます。会期は2016年2月14日(日)まで。

                    

ニューズレター配信  美術評論家 岩佐 倫太郎 

 

近著 「東京の名画散歩」――印象派琳派が分かれば絵画が分かる(舵社)  

 

 

狩野派の美術館とも言える二条城だが、隠された徳川の政治的意図は何か③

1615年の大坂夏の陣で政権を確定した幕府は、京都の朝廷対し露骨な干渉を行う一

方、秀忠の娘、和子(まさこ)を後水尾天皇に入内させ、朝廷の外戚となるのに成功します。

これは美術史的に見て、別の意味で大事件でした。のちの尾形光琳という江戸初期の天

才絵師を生む契機になったからです。と言うのは和子は大変な着物道楽、親元・徳川

の余りある財力を光琳・乾山兄弟の生家である呉服商の「雁金屋」(かりがねや)につぎ

込んだからです。雁金屋もとは浅井家の家臣。和子は浅井3姉妹の末っ子、お江の娘

です。そのためか破格な引き立てを受け、光琳の祖父の時代には莫大な財産を築きます。

光琳が働きもせず40歳を過ぎるまで道楽を繰り返せたのもその遺産のせい。一人の天才

を生むためには、天命は膨大な時間と金を要求したともいえます。もし生活のためセコセコ

と彼が働いたりしていたら大成は望めず、《紅梅白梅図屏風》や《杜若図屏風》などの今日

の国宝も生まれなかったでしょう。光悦の場合も、光琳にもやはり徳川の力が働いています。 

f:id:iwasarintaro:20160115090704p:plain京都中心部の地図  和子入内は二条城から御所へ、行幸は御所から二条城へ。両者はごく至近にある。

 

さて両家の関係は6年、今度は後水尾天皇の二条城への行幸が行われます。徳川方は

二条城を拡幅し本丸を築き、内堀を掘り、行幸御殿を新築するなど大変な準備をしますが、

れも幕府の支配力を内外に誇示し、朝廷を取り込む思惑です。当日は上洛した秀忠と

の子の家光(和子の実兄)が行幸を迎えます。二の丸御殿は、狩野探幽と門によって

豪壮優美な障壁画や天井画新しく描かれ、目もくらむばかりに荘厳されています。そ

の日から5日にわたって、和歌、茶会、蹴鞠など王朝風の雅びな遊興が尽くされました。

 

                 

さて、ここから先は僕の想像です。歓を尽くして過ごした最後の日、このを待っていたよう

に、秀忠、家光親子は本丸に新築した天守天皇らを招きます。「遊びはひと休みして、京

の景色を雲の上からご覧になりませんか」、とでも誘ったのでしょう。一行は5層の新天守

の階段を息を弾ませて登ります。最上階に達すると、眼下に広がる京の景色を見た女たちは

息を呑んで無邪気な歓声を上げている。その傍らで天皇は、背中にゾクッと冷や汗が流れ落

ちるのを感じていたに違いない。

なぜなら、自分たちの住まいがかくも克明に見えてしまっていることに気づいたからです。仮

りに手渡された望遠眼が無かったとしても、自分たちの行状や来客の往来など筒抜けでは

ないか!奉られているつもりが、実際は囲われ暮らしぶりを見張られる虜囚でしかないと悟り、

屈辱的な敗北感にとらわれた。そして心底気分が悪くなり、激しい不機嫌と悔恨を抱え鬱々

と帰途に着いたのではないでしょうか。     

                            ●

心を無くさせ操り人形を作る──実はそれこそが徳川の狙いでした。後年、後水尾院は都                                        

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心を離れた比叡山麓に広大な修学院離

宮を造営ますが、それは二条城のパノ

プティコンの牢獄から自由になりたいがた

めの脱出作戦であり、幕府確執に対

して、せめてもの意趣返しを行ったのでは

ないかと僕は考えています(この項、完)。

修学院離宮(浴竜池) 皮肉なことにこれも徳川遺産

 

京都市二条離宮事務所のHP 間取り図の丸いボタンを押すと部屋の様子がパノラミックに見れる優れものです。↓

http://www2.city.kyoto.lg.jp/bunshi/nijojo/nijoujou0930amana-p/nijoujou0930amana-p/tour.html 京都市ききょょう都市京都市京都市文化市民局元離宮二条城事務所ょ文化市民局元離宮二条城事務所

                       

ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎 

 

 

■後記

光悦の鷹が峰の芸術村。誕生させた目的は何だったのか?和子入内を調べているうちに、真相が見えてきました。

次回ニューズレターは抽象絵画の見方について。そのあと、1615年の芸術村と入内の関係性の自説を公開する予定。

 

参考文献;

・「天下人の城大工―中井大和守の仕事Ⅲ―」中井正知・谷直樹・山本紀美・戸柱美智代 編集・執筆

大阪市立住まいのミュージアム(大阪暮らしの今昔館)発行

・「新発見 洛中洛外図屏風」 狩野博幸 青幻社刊

・「二条城二の丸御殿障壁画ガイドブック」元離宮二条城事務所 編集・発行

・「豊国祭礼図を読む」 黒田日出男 角川選書

・「後水尾天皇」 熊倉功夫 岩波書店 同時代ライブラリー

・「wikipedia」の当該項目ほか

 

画像;岩佐倫太郎、wikipediaパブリックドメインより

地図;マピオン

 

5層の天守の威容を誇る二条城だが、隠された徳川の政治的意図は何か②

わがニューズレターの読者の皆さんは、「パノプティコン」をご存知だろうか。聞き慣れない言葉かもしれないが、これはイギリスの哲学者、ベンサムが発明したユニークな形の「監獄」のことで、一望監視施設などと訳されます。構造的には囚人の独房がズラリとドーナツ状に並んで、中心にはすべての部屋を見張ることが出来る監視塔が立ちます。

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パノプティコン型の刑務所の例(キューバ)内部は現在、は記念館として公開 

 

最大の特徴は、独房からは塔の中を見れず、囚人は塔に監視人がいてもいなくても四六時中見張られている気分にさせられる点。囚人は絶えず監視の目を気にするうちに、ついに自分で頭の中に支配者を複製し、自主的に規律正しく振舞うようになってしまうという、笑えない一種の自己矯正装置です。何やら近年の日本の政権とメディアの関係みたいです!ところで、僕の言い分はもう読者諸兄姉にはお判りですね。二条城(の天守閣)の究極の目的は、徳川幕府が常時監視しているぞと朝廷に分からせるためのパノプティコンと同じではなかったか、と言うわけです。下の屏風絵は創建時のもので、家光の時代に天皇行幸のときに場所を少し変えて作り直されますが、5層の天守が何の役目であるかはここでも充分に分かります。御所はこの城の斜め右下辺り、ごく至近にあるんですから。

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富山県勝興寺が所有する洛中洛外図六曲一双のうち左隻の部分(高岡市美術館に寄託) 筆者は狩野探幽の父である狩野孝信およびその周辺の絵師とされる

 

さて歴史をもう一度さかのぼると、家康は関が原の戦いから3年後の1603年、伏見城を修復してそこで朝廷から征夷大将軍の宣下(承認)を受けます。その1ヶ月後に二条城が完成しているので、始めからそちらでやれば、と思ってしまうのですが、そこにも家康一流の戦略がある。伏見城は秀吉ではなく今や徳川が支配する城であると、京都の朝廷や公家、大名などに見せつけ、マインドのリセットをぜひともやっておきたい。そうしておいて2年後の1605年には、子の秀忠に将軍職を譲ります。今度の宣下は二条城。徳川家の世襲を既成化して付け入る隙を与えない迅速な作戦ですが、武功の面では今いちパっとしない息子を、皇居に並び立つ二条城で天下にデビューさせた訳です。                                 

数々の徳川家の権勢史を彩る二条城ですが、中でも洛中での最高の栄華のシーンというと、1620年に秀忠の子、和子(まさこ)が二条城から皇室へ入内を果たしたときと、その6年後に後水尾天皇による二条城への行幸が実現したときです。いずれも絢爛かつ威儀を正したページェントでした。パレードで輿(こし)を引くのは牛車。圧倒的財力を貴顕に見せ付け、西国大名たちをも畏れ入らせるのが目的なので、歩みはのろいほうが好都合。伏見のように10キロも離れた南方からでなく、二条での城の立地は、計画魔の家康のことですから生前に、こうしたパレ―ドすら構想して成されたのでしょう。

                         

後水尾天皇行幸には、おそらく徳川の有無を言わさぬ要請があったはずです。不承不承ながらも金持ち妻の実家の誘いなので気を許してか二条城を訪れ、5日間にわたる盛大な饗応を受けています。その最後で天皇は二条城の孕む悪意に気づき、胸が悪くなり卒倒しそうになったのではないか・・。最後の次回は、僕の小説家的な想像を開陳します(つづく)。

 

ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎