屏風絵の見方にはちょっとしたコツがある。それが分かると急に楽しくなるはずだ。

【生誕180年記念 富岡鉄斎―近代への架け橋―展その②】兵庫県立美術館

 

鉄斎など大型の屏風絵には鑑賞の仕方にちょっとしたコツがあって、西洋画のように俯瞰で対峙して全体の意味を考え、大きい幹から順に細部に分け入って見るといったやり方は適切ではありません。そうではなく意味を考えるのを後回しにして、まず虫眼鏡のように、双六のように部分を追い駆けながら見ていくのがいいのです。すると画中には必ず仙人や高徳の士と思しき登場人物が待ち受けています。ここでは火口原の白い装束の人物がそうです。富士に16回も登った池大雅とその仲間の登山の様子ですが、彼らはあなたの案内役、あるいはアバター(あなたの身代わり)でもあります。

 

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《富士山図 》(左隻)1898 年 紙本着色、六曲一双 清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵 ◇前期展示

 

となれば、誰かこれらの人物の一人を追いかけて、屏風の物語世界に分け入り、こころを遊ばせてしばし富士山をバーチャル・トリップすればいいのです。これぞ屏風絵の醍醐味。それが一巡した後、改めて全体を離れて見渡すとどうでしょうか。今度はマクロな俯瞰で気宇壮大な世界を掌中にすることができる。一粒で2度おいしい、視線の遠近の往復運動を、大屏風の前では近づいたり離れたりしながら、ぜひ試してみてください。

さて絵画として鉄斎の絵の特徴は、およそ3つあります。1番目はだれもが感じるように色彩感覚がシャープなこと。下の《群仙集会図》なども、抑制して使っている緑青や群青、そして赤の顔料が思わぬ効果を発揮して、西洋絵画に負けない色彩感覚が生まれる。鉄斎はゴーギャンドラクロアなどとも通ずる才能あるカラリストです。

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《群仙集会図 ぐんせんしゅうかいず》   

1916 年 絹本着色、一幅 188.0×71.2   

清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵 ◇後期展示  

 

2番目に彼のいいのは、《富士山図》にも見る如く、際立ったグラフィック感覚。絵と賛(文字)と余白のバランスがこれ以上なく小気味よい緊張感で拮抗しています。我々はすでに琳派俵屋宗達本阿弥光悦のコラボによる鶴の絵の巻物において、絵と文字が現代広告のようなグラフィックを達成済みなのを知っていますが、鉄斎の場合にはそれを一人で、しかも朱の印影なども加えながら完璧な空間を作っている。日本の文人ながら、彼の絵が西洋画に通じるといわれるゆえんのひとつです。

さて3番目の特徴は、彼の絵のユーモア感覚でしょう。近代芸術は先に進むにしたがって、神経質で狭量なものになりがちですが、鉄斎だけは例外。たくまぬ楽天の野太い笑いというものが、ちょっとした虎や仙人などの絵にも潜んでいて、折に触れて笑いがにじみだすのです。世界を肯定する力が実に大きい、と言ってもいいかもしれません。ともかくこんな事も頭の隅に置いて鉄斎を見て頂ければ、これまで縁が遠いと思っていた画家が、よく本を読み、旅をし、パワースポットでエネルギーをもらい、長生きを目指し・・・、と我々と何ら変わらない願望を持って人生に処した先達なんだとわかり、少し身近に思えてきます。そして年を取るほどに画業は自在になり、エネルギーにあふれ、現実の山河に仙境を見出し、自足した人生を歩み、あと1日で90歳まで生きました。羨ましい人ですが、我々の歳の取り方もかくありたいと思次第です(この項、完)。

 

http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1603/ ←展覧会HP

◇前期展示 4月10日まで ◇後期展示 4月12日~5月8日

 

ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎 

■後記 僕の家の近くの宝塚中央図書館には、図書館の中に「聖光文庫」という美術専門の図書室があって、そこの図書の購入は、鉄斎美術館の入場料の全額寄付で賄われています。蔵書は古今東西の美術史、絵画、書、彫刻、工芸、考古、建築、庭園など大変な充実ぶりで、僕にとってもこれほどありがたいことはなく、美術評論の活動をしたりできるのも、この図書室があったればこそ。それで何かお礼をしなければと、去年の秋は図書館で無料講演会を開いていただき、鉄斎の絵の見方や陶淵明の詩の関連について話させてもらいました。

 

 

鉄斎は現実と空想を往還しながら、まったく新しい理想郷(仙境図)を作り上げた。

 

■生誕180年記念 富岡鉄斎―近代への架け橋―展】兵庫県立美術館

その①

神戸市の兵庫県立美術館では、宝塚の清荒神にある鉄斎美術館のコレクションを中心に、各地の国公立美術館や宮内庁からも作品を集めて、最後の文人画家で巨匠と言われる富岡鉄斎(1836~1924)の画業を克明にたどる大掛かりな展覧会が開かれています。

f:id:iwasarintaro:20160324134838j:plain《富士山図 》(右隻)1898 年 紙本着色、六曲一双 清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵 ◇前期展示

まず文人画とは何か、その辺から明かにしておきましょう。文人画とは、詩人や政治家など絵描きではない職業のものが、あくまで余技として楽しみのために描く絵のことを指します。水墨画や淡彩画が主です。たとえば有名な宋の詩人にして書家の蘇軾の絵などはその例。日本だと南画とも言われますが、江戸の俳人の蕪村の絵なども思想的にはまさに同じです。彼らの描く絵は本質的に売り絵ではないので、売れセンを狙ってこれ見よがしな技巧を見せつけたりする訳でもなく、むしろエスプリと真情にあふれたイノセンスが特徴とも言えます。絵の種類は、人物画や風景画はもちろんのこと、これに加えて「仙境図」と言われる、文人の胸の中に宿る理想郷を空想的に描く、きわめて特徴的な伝統のジャンルがあります。僕から見ても最も面白いのはこの仙境図です。                       
さて、上の画像は≪富士山図≫ですが、鉄斎63歳のときの作。六曲一双の右隻。横幅は3.5メートルを越え、今展の目玉中の目玉でしょう。鉄斎美術館所蔵で、宝塚市指定有形文化財にもなっています。僕もこれをもう一度見たくて足を運びました。
この絵がなぜいいかと言うと、鉄斎絵画の本質を最もよく表わしているからです。というのは、ふつう人はこれを富士山というリアルな風景画(真景図という)と思いがちですが、さにあらず。よくご覧あれ。鉄斎の手にかかると、秀麗かつ端正なはずの富士山が、かくもデフォルメされ、人外魔境というか妖気を孕んだ世界に変身する。現実は現実でなく、リアルを超え、鉄斎はもうすでに富士山のうちに仙境を見出しているわけです。
この右隻は、そうしたSF的なまでに非日常的な物語世界へ、見る者をして誘い込む巧みな導入部となっている。リアルと空想の往還こそ、鉄斎絵画の目指す世界観です。                                    
そして見る人の目が左隻に移ると、そこには空中から眺めたありえない角度の富士山頂の姿が、まがまがしいまでに立体的に存在する。これには驚きます。多くの人は富士山の絵と言えば、北斎や大観やまた片岡球子あたりの平面的かつデザイン的な絵は知っている。しかしこの鉄斎のように火山の霊気を受け止め、エネルギーを舐め取るようにして描いた絵は知らなかったのではないでしょうか。

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《富士山図 》(左隻)1898 年 紙本着色、六曲一双 清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵 ◇前期展示

 天に届きかねない大地の頂点で、宇宙の統一的ともいうべきエネルギーが流露するのを感得し、自ら共振しながら描いている作品です。「万巻の書を読む」ことをモットーとした教養人鉄斎の、仏教・儒教道教の3教に神道を加えた膨大な教養の蓄積が一挙に自噴して、余人のなしえない幻視を実現してしまったと見てもよいのではないか。僕はこの宇宙的な力とのヴァイブレーションを見るとき、ついオランダのゴッホが神経の被覆をむき出しにして、星月夜や糸杉と感応しあったことを想起せずにいられません(つづく)。
 http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1603/ ←展覧会HP

会期は2016年5月8日(日)まで  作品の入れ替えあり

 
美術評論家 岩佐倫太郎 
■後記 今回の県立美術館展を共催する鉄斎美術館は、我が家からも近くにあって、僕も清荒神神さんを散歩するついでに寄る行きつけの館にしています。柱のない広大な展示室はまことに見やすく、屏風絵などをウンと近づいてディテールを確認したり、逆に遠く離れてみて、雄大な構図法や余白の使い方の巧みを感服して見たりしながら、鉄斎ワールドを楽しんでいます。

エル・グレコ《受胎告知》の美しさは、ミロのヴィーナスと同じ究極のギリシャの美だ。

■【はじまり、美の饗宴展 -すばらしき大原美術館 コレクションー国立新美術館】■

 

 

大原美術館岡山県倉敷市の大実業家、大原孫三郎が同郷の画家、児島虎次郎を支援しな

がらコレクションを進め、1930年に設立した西洋絵画の美術館です。美術鑑賞の目を養う点で

も実に優れた標本性があり、画家ならではの目利きによる選択の良さも特筆されます。

その館の至宝ともいうべきコレクションがいま東京に運ばれて、六本木で展覧中。中でも最大

の目玉は、エル・グレコの《受胎告知》。これはもう日本にあるのが奇跡のような作品です。

エル・グレコはグレコの名が示す通りギリシャ人。16世紀に生まれ、若くしてヴェネチアに、つ

いでローマに出て修行し、スペインで大成しこの国で生涯を送って人です。 

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エル・グレコ《受胎告知》 1590年頃 - 1603 / 109.1 × 80.2 cm / 油彩・カンヴァス大原美術館所蔵  

 

                      

上の絵の見どころは、まず色彩。古格で重量を持ったビザンチン的色彩(ヴェネチア風とも

言えます)が速度をもって衝突しています。マリアの服の赤のぬめっとした分量感。緑の上

衣と赤とは補色の関係。受胎を告げる大天使ミカエルの着衣は、もとは金色でしょう。黒い

背景は神の啓示にバカっと割れて、すざまじい黄金の光が飛び散る。ひと昔まえの静謐な

受胎告知図とは一線を画し、現代アニメやコミックのセンスさえ含まれ、実に前衛的です。

構図的には、絵の中に3つの翼があるのも見どころ。白い精霊としての鳩の翼、次いでミカ

エルの翼。見落としてならないのは、マリアの上にある黒い巨大な翼の影です。もしこの大

きな翼を思わせる雲がなければ、グレコの幻視のような絵画はここまでインパクトを持ちえ

なかったことでしょう。

                              ●

さてここで、僕が一番語りたいのは、図像学的解説ではなく、この絵の持つギリシャ的伝統

美についてです。今までたぶん誰も言わなかった、マリアの肢体の絶妙なひねりに含まれた

人体造形の美しさです。マリアは右脚を左脚に乗せているのにお気づきでしょうか。書見台

に向かって聖書を読んでいたマリアが奇跡のお告げを感得し、下半身はそのまま、上半身

捻り、さらに顔はもっとひねって大天使を見つめる――

なかなか美しい人体のポーズの発見ですが、よくよく思い出してみると、立つと座るの違い

はあってもこの美しさって、古代ギリシャのミロのヴィーナスそのものではありませんか?

片足に重心をかけS字型に体をひねって、動の中の静の一瞬のポーズを取るところに究極

の理想美が表現されています。有名な円盤投げの彫刻などもそうですが、ギリシャ人はもと

もと人体こそが美の基準との美学を持ち、こうした動的モデリングの能力はピカ一でした。

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ミロのヴィーナス 1820ギリシャのメロス島で発見 大理石製 高さ203cm ルーブル美術館所蔵

 

そういうつもりでこの作品を見ていただくと、ギリシャ発の西洋美のDNAが、グレコを通じて

2千年近いのちスペインで発現したとも考えられます。グレコはルネサンスの整形美など

軽々と受け止め、次のバロックの時代をも越える創造を行い(早すぎた!)、後年のセザン

ヌやピカソの近代を呼び出した、とてつもなく時間の射程の長い天才ではなかったか。そん

なことを考えさせる実に貴重な作品でした。

 

 【はじまり、美の饗宴展 -すばらしき大原美術館 コレクション】

東京・六本木の国立新美術館にて44日(月)まで

(民芸の陶芸、棟方志功などの日本の絵画も展示)

 

 

 

 ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎 

 

 

家康が光悦に与えた鷹ケ峯・芸術村。隠された謎の使命とは何だったのか③

 

この贅を尽くした壮大なイベント装置の一式は、たとえば牛車にせよ、パレードの装束、

楽器など、すべて合わせるととんでもなく膨大な量のはずです。ましてや入内の家具、

衣装類ともなると、ことのほか豪奢を極めたことでしょう。

いったいこれだけのものを誰がどこでどう作ったのか?こんな疑問が浮かんできます。

この時期の江戸ではまだそこまで技術があると思えないし、京都のしもた屋程度では、

小さなアクセサリーくらいしか作れないだろう。婚儀にはまずは牛車が数多く要る。車

輪も轅(ながえ)も最良の材料を一から入手してそろえたい。そこに輿の制作や漆塗り、

金細工、組みひも、布織りなども加わり、もうそれだけでも一流職人のワンセットが要り

そうです。ほかにも、盛儀のための刀剣や牛馬を飾るオーナメント、引き出物などなど。

ちょっと思いつくだけでも広い作業場、大勢の職人、多大な時間が必要に思います。

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上段の右、2頭の牛に曳かれるのが秀忠の息女・和子(まさこ)の乗る牛車。葵の紋が見て取れるだろうか。

 

しかも物量に対応するだけでなく、デザインひとつとっても宮中の年中行事や有職故実

に合致する必要がある。ところが武門の出の徳川家はその辺は得意ではない。しかし、

朝廷に並びかけようかという時に、「所詮は武家のがさつ者よ」、などと思われ恥をかく

ようでは困る。

徳川家は考えたはずです。いったい誰に任せれば、多くの家具・工芸分野にまたがる

職人をコントロールして工程を調整し、しっかり品質管理し、朝廷のしきたりに適合する

嫁入道具を作れるのか。そのとき白羽の矢を立てた人物とは、朝廷諸行事に通じて、

工芸デザイン全般に目が利き、かつ職人の棟梁として重しの効く本阿弥光悦以外にな

かった、と考えるのはどうでしょう。

                                       ● 

もうここまで書けば皆様お見通しですね。光悦村は和子入内の嫁入道具とパレードの

用品の一切を作るため、家康が土地を支給したファクトリーであったと。そしてマルチプ

ルな天才、光悦はその一大プロジェクトの総合プロデューサーであったと。そう考えると

すべての事が腑に落ちてきます。なぜ、いっせいに移住したのか。なぜ、光悦に扶持ま

で与えたのか。扶持は全体の組織化と監修の対価、つまりプロデュース・フィーでしょう。   

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後水尾天皇1596-1680 中宮和子1607-1678 二人の間に生まれた女一宮がのち女帝、明正天皇となる

 

 

実は朝廷への入内は既に1614年に家康から要請したものですが、天皇の抵抗に会っ

た。またその間に夏の陣や後陽成院の死去、家康自身の急死などもあって、実現まで

6年もかかっています。当初の家康の思惑では、23年くらいではなかったか。として逆

算すると、工場敷地を確保し(光悦村は89万坪)、材料を集め、職人をセットで定住さ

せ、わけをよく知った棟梁のもと、工程管理しながら集中生産を急がないと間に合わない。

しかも徳川家としては入内の応諾がまだもらえないため、嫁入り道具一式の製作を目立

たせたくなかった。仮にも洛中などで発注したら、たちまち人目に触れ、口さがない京童

(きょうわらべ)の格好の話題にされるのは必至。

                           ●

とまあ以上のような諸要件をすべて満たすソリューションとして、歴史の必然から産み落

とされたのが鷹が峯の光悦村だった――というのが僕の推論です。琳派の開祖=光悦

は、家康の恩顧で得た土地で晩年は自由に書画を楽しみ、土をひねりして悠々の人生を

過ごしました、などと言う話とは、だいぶ違うストーリーが見えてきましたちなみに鷹が峯

の土地は、光悦没後、幕府に返上されます(この項、完)。

 

参考文献;

・「新発見 洛中洛外図屏風」 狩野博幸 青幻舎刊 (大江戸カルチャーブックスのシリーズ)

・「後水尾天皇」 熊倉功夫 岩波書店 同時代ライブラリー

・「wikipedia」の当該項目ほか

 本の画像著作権提供;青幻舎(京都市) 

 

ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎 

 

家康が光悦に与えた鷹ケ峯・芸術村。隠された謎の使命とは何だったのか ②

二条城の成立を調べていて、この城がよくあるように既存の城を修改築したのでなく、

関が原の戦いの翌年に二条の堀川右岸の民家数千軒を立ち退かせて新築したことも

わかりました。とすれば、その人たちはどこへ行ったのか?補償金などあったのか?こ

の辺の記録は、僕の見た範囲ではまったく見当たらない。ひょっとして強制立ち退きに

あった職人たちからの不満がくすぶったので、不穏な火種になる前に鷹が峯に転地さ

せて補償したのか、とも想像してみました。

                  ●

自説ではありますが、この3番目の説も蓋然性として無くはない。しかしいくつかの点で

問題があります。家康は絶対的な独裁者です。今の北朝鮮のように。なので立法も司法

も意のまま。それがそこまでお人好な振る舞いをするものだろうか。しかも立ち退きから

15年経ってますから、本当に補償するなら、タイミングとしても遅過ぎる。それに何より、

なぜ本阿弥光悦が代表格で鷹が峯に移らなくてはならなかったのか、と言う疑問です。

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徳川家康1543-1616  徳川幕府1603年に開く   本阿弥光悦15581637 安土桃山から江戸の芸術家

 

刀の鑑定や研ぎを家業とする彼の実家は今出川の北にあって、二条城の敷地にはまっ

たくかかっていません。と言うことで、どうも転地補償説も説得力が弱い。では、いったい

鷹が峯の芸術村は何のために、この時期に、光悦と言う人物を選んで作られたのか?と

言う本題に戻ってしまいます。 通説では、光悦が天皇と近かったために家康に忌避され

郊外に出された等ありますが、ならばそんな人物になぜ扶持(サラリー)まで与えるのか。

法華宗の信徒村を作ったなどと言うのも ちょっとムリがある気がします。  

                          ●

この問題を解くカギは、徳川秀忠の息女、和子(まさこ)の後水尾天皇への入内

にある、と気づきました。そう閃いたのは、ある一冊の本を見たときです。

「新発見 洛中洛外図屏風」(青幻)、狩野博幸著。この本は最近発見された

屏風画の解説なんですが、1620年、和子(まさこ)が二条城を出発して御所へ

嫁いだときの豪華絢爛なパレードの模様を、克明で達者な筆遣いで描いています。

資料としても美術としても一級のものです。歴史上、武家の娘が入内するのは

平清盛の娘いらい。それ故、徳川家としても力が入り、これを機会にもはや戦国

の覇者ではなく絶対王である、とのイメージも植え付けたかったんでしょう。外

戚として天皇家の一員となれるし、子供が出来て天皇に即位すれば、秀忠は天皇

の外祖父に、家光は天皇の伯父になる野心もあったに違いない。

 

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この絵では和子に続く6台の牛車の一部が見える。絢爛かつ威儀を正したパレードは京雀を驚かしたはず

 

屏風絵の本をつぶさに見ていきました。先頭はもう御所に着いているのにまだ二

条城を出ていない列もあるといった、延々たる行列。荘重かつ祝賀感に満ちた屏

風画の中心的存在は、和子の乗るひときわ大きく華やかな、葵の紋を散らした2

頭立ての牛車です。輿のひさしは唐破風(からはふ)に仕立てられ、贅を尽くし

て車輪や牛が引く轅(ながえ)も漆と金箔に彩られ、美々しく着飾った供奉者を

引き連れる。輿を先導するのはエキゾティックな装束の奏楽隊や公家たちの輿や

駕籠の列。和子の後ろに従うのは、これもまた華麗な6台の牛車。美しいカバー

をかけた嫁入り道具の長持ちを担ぐ荷役たちも何十組もいるのが見て取れます。

実はこのパレードが鷹が峯の光悦村の誕生とつながってるんです(明後日発行の

最終回に続く)。

「新発見 洛中洛外図屏風」 狩野博幸 青幻社刊 本の画像は青幻舎提供

 

ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎 

 

 

 

家康が光悦に与えた鷹ケ峯・芸術村。隠された謎の使命とは何だったのか ①

昨年の2015年は琳派400年にあたるので、全国の美術館が呼応しあって同一テーマで

収蔵品などを公開しました。僕も東京では根津美術館光琳の《杜若図》や《紅白梅図》

(熱海MOA美術館所蔵)の国宝を見たのを皮切りに、箱根の岡田美術館では宗達、光琳

の優品を堪能し(※)、夏は諏訪のサンリツ服部美術館で念願の光悦の国宝の白楽茶碗、

銘《不二山》を見ることができ、秋の京都では国立博物館で久々に宗達・光琳・抱一の

風神雷神図》の3点が一堂に会したのと再会しました。粒ぞろいだったし、眼福な1

でしたね。話はちょっと飛躍しますが、今度の2020年の東京五輪でも、オリンピック憲章

にのっとって、ぜひこのような文化プログラムを展開し、日本の美意識を発信すべきです。   

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尾形光琳 雪松群禽図屏風(せっしょうぐんきんずびょうぶ) 江戸時代 岡田美術館 (箱根)

 

それはそうと、琳派の起点とされる光悦村のことです。いったい光悦村とは何だったのか?

はじめ僕の理解は、大坂夏の陣が終わって平和の時代のパトロンとして家康が芸術村を

作った、という単純なものでした。家康=フィレンツェメディチ家のような見方ですね。多く

の方もそういう理解でしょう。記録にも「光悦が洛中に飽きて辺土への移住を希望した」、

それを家康が聞き入れ、領地を鷹が峯に拝領させ、扶持も与えて待遇とした、とあります。

なかなかの美談であり、徳政のイメージですが、やにわには信じがたい。苛烈なリアリスト

の家康にそんなメセナ精神などはまったく有るまい、と思い直し最初の考えを捨てました。

それに職人仲間だって、洛中にいてこそ仕事を受けたり御用聞きが出来るのではないか。

                         ●

 

で、次に考えたのは、芸術村は新政権の人気取りの広告塔であると言う視点でした。家康

も秀吉の北野の大茶会や醍醐の花見のやり方を見ならって、ポピュリズム即ち人気取りの

広報戦略として、今日の博覧会のようなつもりで鷹が峯の光悦村を開かせたのではないか。

それによって朝廷や公家や町衆に、今や徳川へ世が変わったのだとマインドセットを切り替

えさせ、秀吉恩顧の西国大名たちをも財力でひれ伏させ、お家再興などと言うくすぶる野心

を未然に防ぐ、そんな魂胆かな、と思い至りました。

                         

たしかに鷹が峯と言う土地は、秀吉がめぐらした「お土居」といわれる京都市中を囲う塀から

まだ北に外れた僻地です。安いコストでイベントによる政権のプロパガンダ!一応納得性が

あります。僕もそう書きましたし、半分は当たっているでしょう。しかし何かリアリティを欠いて

いる、というか身体性に欠けている気がする。歴史の歯車はもっと重い欲望のようなものでし

か廻らないのだ、と自説ながら疑義を呈した。その後、二条城を調べているうちに、それまで

に思いもよらなかった考えが天啓のように僕の脳裏に飛来したのです。それは何か。あと2

回お付合いください(つづく)。

 

(※)琳派400年記念  箱根で琳派 大公開 第二部 開催中   岡田美術館  201643日(日)まで

http://www.okada-museum.com/

 

ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎 

 

生誕110年 村井正誠展 ひとの居る場所  【和歌山県立近代美術館】

日本の抽象美術は、「具体」の白髪一雄や元永定正が人気急上昇だが、こんな先人もいた。

 

□■ 生誕110年 村井正誠展 ひとの居る場所  【和歌山県立近代美術館】  ■□■

 

年が明けてまもなく、和歌山市へ出かけました。もう何十年ぶりかもしれなかった。

目的は表題の画家、「村井正誠(むらいまさのり)展」を見るためです。

美術館の立地はご覧のように堂々たるお城のそば。設計は今は亡き黒川

紀章先生。お城に負けてはならじと髭剃りのむき出しの刃のような軒の

連なりが道路(堀のあと?)を挟んで対峙する、力のこもった建築です。

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 和歌山城。石垣の見事さはさすが。天守閣は戦災後に復元したもの。

 

さて、村井は和歌山県新宮市に育った医者の息子で、早くも1928年に

パリに留学して当時のヨーロッパ美術の潮流に触れ、日本にその成果を

持ち帰っただけでなく、後進の教育にも務めた抽象絵画の先駆者です。

                      

ふつう抽象画と言うと、多くの人は戦後の具体美術協会19541972

などが始まりのように思っているかもしれません。たとえばアクション

ペインティングで知られる白髪一雄やユーモアある浮遊感のタッチで知

知られる元永定正です。特に白髪は天井から吊るしたロープにつかまり、

足の裏で絵を描くという破天荒な方法で世間に衝撃を与え、近年はとみ

に国際的評価を上げている作家です。スターバックスのシュルツ会長が

作品を自分のオフィスに飾っていることやサザビーパリのオークション

で最近5億円以上の値がついたことでも話題になりました。 

 

 

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白髪一雄 《作品Ⅱ》1958   元永定正 《ヘランヘラン》1975   いずれも兵庫県立美術館

平成20 年度 コレクション展より

 

それはさておき、村井正誠がパリに出たのは第1次世界大戦が終わって10年ほど

経った、年齢的にはまだ20歳代前半でした。その若き眼が見た当時のパリの画壇

はというと、モネが数年前亡くなり、ピカソキュビスムを経てシュールレアリスム

進み、藤田嗣治などエコール・ド・パリが全盛、そして抽象画が勃興した時代でした。

                         ●

その中で、村井が一番影響を受けたのはマティスではなかったかと、今回の展覧会

100点にのぼる作品を見て思います。マティスの持つ安穏で官能的な世界観や、

浮世絵に影響された遠近感の無い平面的な描き方、濃密な色使いなどがことの他

しっくり来たんではないか。彼は始め殆どマティスふうなタッチで絵を描いています。

 

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村井正誠《パンチュール3》1934  《自画像(太い線)》 1974 いずれも和歌山県立近代美術館蔵

 

生涯マティスに私淑した人なんでしょう。それ故、マティスが晩年の「切り絵」で抽象

に移行したのに呼応して、戦後、抽象絵画へ進んだ時も迷いは無かったはずです。

ほかに画家で影響を受けたのは、知的で温和で構成主義的なモンドリアンでしょう。

逆にカンディンスキーなどは、くどくて苦手だったかもしれません。

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村井正誠 《聚落》 1941年 これなら抽象画は苦手と言う人も理解できる? 和歌山県立近代美術館蔵

 

遥かな歴史を振り返れば、人類が絵を描いた最古の記録は4万年も前の洞窟画。

有名なアルタミラの洞窟の絵なども何と1万5千年も昔のこと。それ以来ずっと人

類が描き続けてきたのは、具象画です。なので21世紀初頭の抽象画の発明は、

人類がロケットで月面に降り立ったくらい劇的な、20世紀の大事件といえます。

日本の抽象画がいまや「具体」などのように、国際的に第一級の高い評価を享受

するのも、村井正誠や、やはり同時代パリにいた山口長男(たけお)、シベリア抑

留から帰ったオノサトトシノブらの先駆的活動があってのことでしょう。山口長男に

ついてはまた、機会を見つけ改めて書きます。会期は2016年2月14日(日)まで。

                    

ニューズレター配信  美術評論家 岩佐 倫太郎 

 

近著 「東京の名画散歩」――印象派琳派が分かれば絵画が分かる(舵社)