■祇園祭の山鉾に、ギリシャ神話を見た! (その3 完結編)

いったい僕はなぜ祇園祭の《ヘクトールとアンドロマケ》に、かくもこだわっているのか。それは、イタリアの画家キリコの描く同の絵画に、以前から惹かてならないからだ。下の絵がそれで、ギリシャに生まれ育ち、アテネで教育を受け、シュルレアリスムにも大きな影響を与えた人だ。教科書にもよく載っているのでご存知の方も多いだろう。ちなみに同名作品は何点かある。

キリコ12僕のばあい、ギリシャ神話を知る前にこの作品の方を知った。しかしながら神話の物語を知らないままでも、睦みあうこの2体から発散されているのが、決して陽性な恋愛感情ではなく、明らかに悲劇性であることを感知するのはそう難しいことでは無い。それではいったい、表情も無いアンドロイドのような人形が、何故こんなにも、悲しみや別れの愛惜を表現しえるのか。ここには古代ギリシャが発明した美の規範、「コントラポスト」が深くかかわっていると僕は考える。    

コントラポストとは、ミロのヴィーナスに見るがごとく、片足に体重をかけ、腰と肩をひねるポーズである。そんな事がそれほど大した事なのか、と言う疑問の声も聞かれそうだが、ここには実に人間の解剖学的な立ち姿の美しさの黄金律が詰まっている。今でも絵を描く教科書やアニメの指導書を見れば、人物の描き方の最初に、どちらの脚に体重がかかっているのか、はっきり判るように描くよう強調して教えている。逆に左右の体重が均等なのは、存在感のリアリティを損ない、美しくもないのである。体重を片方に懸けることで骨盤が傾き、それにつられて肩の骨が傾いてかつ捻られるーー。ギリシャ人が発見したモデリング理論である。そのもとは、紀元前9世紀にはじまる古代オリンピックで、ギリシャ人が人体の運動性を伴う美しさに、早くから開眼していたからだと僕は推論している。

さてキリコの絵は「形而上絵画」などと的外れなくくられ方をするが、思うに彼はギリシャ美の構造を知的に分析する研究者なのである。彼の作品はその研究成果を言葉による論文でなく、絵で発表したまでのことである。表情に頼らずとも人間の感情は骨の角度と体重のかけ方で表現できる、彼はそう言っているのではないか。  

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ヘクトールとアンドロマケの別れ》1918大原美術館 《民衆を率いる自由の女神1830ドラクロア

祇園祭から話が大きく飛んでしまったので恐縮だが、キリコはギリシャ美の伝統を現代に受け止め、コンセプチュアルに再構成して見せている。その意味では15世紀のルネサンスが発見したギリシャ美を、20世紀にもういちど発見した人とも言える。彼の絵に見る不思議な遠近法なども、ルネサンスの得意技である一点収束の遠近法を解体しながら批評しているのだ。これは彼が長くフィレンツェに住んだ事とも関係なしとしない。

思うにコントラポストのモデリング理論は、ミロのヴィーナスに源流を持ち、ガンダーラの仏像にも東大寺南大門の運慶快慶にも発現し、また近世のドラクロアの《民集を率いる自由の女神》にも、ニューヨークの巨大な自由の女神像にも脈々と受け継がれ、世界中を今なお支配下においている。それを僕に気づかせてくれたキリコの《ヘクトールとアンドロマケ》だからこそ、祇園祭タペストリーまで気になって追いかけをした次第(祇園祭の項、完)。

美術評論家/美術ソムリエ 岩佐倫太郎

祇園祭の後で目的のタピストリーを確認して納得し、その後、近くの室町での連歌会に出席した。毎年この時期、芥川賞作家の高城修三さんを宗匠に、地元の「鯉山保存会」の理事長で国立民族学博物館の名誉教授でもある杉田繁治先生が世話人となって開かれる。実は鯉山鉾にもまた、ヘクトールの父王であるプリアモスと王妃のタピストリーが懸けられるが、僕はまだ実見していない。来年に期したい。さて、この日僕は正客(メインゲスト)なので、発句の挨拶句を持参して披露した。「祇園会やギリシャ神話のつづれ織り  水澄子」。総勢20数名、名手たちが佳句を連発し居酒屋での連歌会は大いに盛り上がったのだった。