【アレクサンダー大王の東方遠征が、ヘレニズムを生んだ】 NO.172ー1705

アレクサンダー大王は、ギリシャ美で世界を征服した。21世紀の我々も、まだその虜囚である。

 

□■□【ギリシャ・シリーズ最終回。アレクサンダー大王の東方遠征が、ヘレニズムを生んだ 】□■      

 

講演会などを多忙の口実に、しばらくギリシャ美術について書くのを怠っていたら、その間に神

戸の「古代ギリシャ」展は終了してしまった。まあ、何ともおまぬけな話ではあるが、アレクサンダ

ーの事だけは書いておかないと、僕としてはギリシャ美の話が完結しない。今回が最終回です。

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アレクサンダー大王(紀元前356332)の話はもう有名なのでここでは大概略を記すだけにと

どめておく。ギリシャの北にあるマケドニアの王家に生まれた不世出の英雄と言っていいだろう。

若い頃、哲学者アリストテレスを家庭教師とし、当時最高の知性から直接、哲学や地誌、帝王学

などを学ぶ。20歳の時、父王がテロリストの凶刃に倒れるや、若いながら即、王位を継承する。

cid:image001.jpg@01D2D6F3.BA9E01C0https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c3/Battle_of_Issus_mosaic_-_Museo_Archeologico_Nazionale_-_Naples_BW.jpg/1920px-Battle_of_Issus_mosaic_-_Museo_Archeologico_Nazionale_-_Naples_BW.jpg

イッソスの戦い》(BC333)のモザイク画。愛馬に乗るアレクサンダーと中央、戦車のペルシャ王ダリウス。

 

リシャ諸都市を統一し、エジプトを制圧してファラオとなったのは弱冠24歳の時。ついでペル

シャ王ダリウスを追ってメソポタミアの地に大軍を率いて東征し、諸都市を支配下に組み入れな

がら、ついには王を放逐し、ペルシャ王国の解体に成功する。                        

ここでやめておく手もあっただろうが、天才の野望は大軍をさらに東に向かわせ、終にインダス

川に達し、インド王さえも服従させる。しかしさすがに兵站は持ちこたえられず、ついにはバビロ

ンに引き返し、その地で得た病によって、戦いに明け暮れた33年の生涯を閉じることになる。

まことに太く短い英雄物語りなのであるが、その版図の大きさは眼をむくほどのものだ。北はド

ナウ川、南はアフリカ北岸、東はインドまで、わずか十数年で一大帝国を築いたのである。シー

ザーやナポレオンが彼を崇拝し、わが身になぞらえたくなるのも判るではないか。

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ところで彼の遠征の性質は、奪って焼き尽くすだけの「戦争」とは相当趣が違っている

ので注意が必要だ。アジアにギリシャ人を植民しながら進む民族の大移動であり、学者

を伴う学術踏査であり、橋や港湾などのインフラ整備を行い、アレクサンドリアと言う

我が名をつけた都市まで多く建設している。また、ペルシャ人とマケドニア人らの1万

人の合同結婚式まで執り行った史実も残っている。こうした10年以上にわたる何十万人

もの人間の1万キロメートルにも及ぶ進軍が、そのままギリシャ式のライフスタイルと

美学を運搬し、交流を促進し、それこそ混血による「ヘレニズム」を生んだのである。

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ヘレニズムはアレクサンダーの文化遺産のようなもので、彼の武力による世界統一の夢

こそは紀元前323年バビロンに潰えたが、ギリシャ文化はアジアにもヨーロッパにも広

大な版図の美の帝国をその後も築く。ミロのヴィーナスもラオコーンもその代表作品だ。

ギリシャ人はイデアを形にする才能に恵まれているのだが、ちなみにインドのガンダー

ラで仏像を初めて彫刻に刻んだのも彼らだ。そうなると日本の我々もまたアレクサンダ

ーの伝搬したギリシャ美の様式の継承者と言えなくもない。と言うのは例えばインドの

グプタ王朝様式とされる薬師寺の国宝の日光・月光菩薩などを見ても、腰をひねり片足

体重の踊るような姿態は、源流は明らかにコントラポストと呼ばれるギリシャ美の規範

なのだ。インドの向こうにギリシャが色濃く透けて見える――、これは誰も否認する訳

にはいかないだろう。

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ガンダーラで仏像が彫られ始めたのは紀元1世紀。ドラクロアの《自由の女神》もギリシャ式の風貌だ。

 

ギリシャの発明品である8頭身や高い鼻梁、筋肉質なやせた頬の造形などは、西洋の近

代にまで影響を与え、我々の美人像をも規定している。我々は旅先の美術館などでそれ

を発見することも多いではないか。ギリシャ美の確立から2千年以上後の今も、世界は

ギリシャ美の捕囚である。そう考えると2千年の昔なんて、そんなに遠い過去ではない

ギリシャ美の項、全7回完)。バックナンバーは http://iwasarintaro.hatenablog.com/ 

 

岩佐 倫太郎 美術評論家 美術ソムリエ   

 

 

なぜアレクサンダー大王はかくも連戦連勝を重ねられたのか。武勇伝は別にして、全くの僕の仮説ではあるが、

「鉄」の技術の差があったのではないか。鉄の王国=ヒッタイトが紀元前⒓世紀に滅びたあと、安くて大量に作

る精度のいい「鋳鉄」の技術をマケドニアが開発し、槍・刀などの武具や食糧増産の農耕具を圧倒的な格差にま

で発達させた。その鉄文明の差で戦争を支配し、終には美の世界水準をも作り上げたと見るが、どうでしょうか。

 

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薬師寺 国宝・日光月光菩薩HP  www.nara-yakushiji.com/guide/hotoke/hotoke_kondo.html