2500年の美術史を巨視すると・・。大きな山はたった三山でしかない

こんにちは。ここに掲げた手描きの図は、講演や講義で僕がよく使う、美術の歴史=2500年を視覚化したものです。2500年の歴史というと、それではアルタミラの洞窟の絵などはどうなるんだ!との声も上がるかもしれませんが、それは何万年も前の石器時代のことなので、まあ原始美術の世界になってしまいます。我々が扱う近代美術史はギリシャに始まり、たった(?)2500年の歴史です。

f:id:iwasarintaro:20190902203254p:plainその中で、注目して頂きたいのは、主な美術運動は、大和三山ではありませんが、たった三つの山で表わせると言うことです。大づかみに言うと、紀元0年前後のギリシャ美術の時代、そして1500年前後のルネサンスの時代、三番目が印象派の時代です。僕は講演に参加された皆さんに、この図を基礎教養としてアタマに入れてくださいといつもお願いしています。自分が好きだと思って見ている絵が、美術史のどの山のどのあたりに位置するのか、前後のつながりはどうなのかなど、こうした図表で知るだけでも、見方も深くなって内外の美術館に出かけた時の楽しさが違ってきます。

 

ただ、こんな簡単な話ではいやだという人のために、もう少しだけ詳しく、解説を加えておきます。今日よく知られるギリシャ美術のスタイルは紀元前5、6世紀くらいには優に成り立っていて、ミロのヴィーナスは紀元前2世紀。のちのローマ人たちは美の規範をそのまま受け継ぎましたので、ギリシャとローマは一体として解り易くおよそ紀元ゼロ年の前後とした訳です。ここはリアリズムを越えた肉体の理想が追及され、神々の姿に託して美のモデリングが表現される、美術史の重要な最初の山です。

 

さて、その次に図の括弧でくくった、(ビザンチン)というのがありますね。これはキリスト教が認められローマの国教になって、宗教の布教と一体となった教会美術です。キリストやマリアの顔の聖像———イコンとよばれモザイク画も多い———が特徴的です。この千年以上も続いたビザンチン美術をなぜ山にしないのかというと、僕からすると西洋美術の暗黒時代、つまり美術の自律的な発展が許されず、宗教の広報係として厳格な縛りの中で教会に奉仕してきたものなので、山ではなく谷だと解釈しているからです(笑)。

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ミロのヴィーナス 紀元前130-100 アヤソフィアのキリスト ラファエロ《牧場の聖母》ウィーン美術史美術館 1506 

この千年変わらない美術が、やっと宗教の呪縛から自由になったのは、1500年を中心とするルネサンスの時代を待ってのことです。学校の教科書では、「文芸復興」などと習うだけですが、ルネサンスの時代とはひとことで言うと、神への疑いが始まり人間精神の自立が芽生えた時代。ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》などはキリスト以前のギリシャ多神教へ復帰して背神的ですし、キリストや聖人を描くときでさえも解剖学的にリアルで、より人間的な表情を持った描画へと変わっていきます。

 

ルネサンスは絵画だけでなく思想史とも一体的に理解すべきで、人類の思想の中で神への離反が初めて生まれ、科学に立脚した人間の精神の自立が始まります。そこからデカルトの「われ思うゆえにわれあり」も生まれるし、ニーチェに至って「神は死んだ」となり、即物的な科学精神は産業革命の源となります。われわれが西洋を理解しようとするとき、重要なのはこのところで、ルネサンスは近代精神の始まりの1丁目1番地としてそのまま今日と地続きな、人類の黄金時代だったと言っていいかもしれません。

 

ところがそれから400年たって、あれほど強力で人々を付き従えさせたルネサンス流絵画のリアリズムや遠近法は破棄され、印象派にとってかわられていきます。その主原因が日本からの浮世絵の流入にあるのはとても興味深く大事なところですが、長くなるので次回に(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ 

 

白鷹禄水苑文化アカデミー(西宮)での岩佐の連続講義は、2年目に入り、印象派からルネサンスと逆に歴史を遡って来て(その方が理解しやすいので)、いよいよ108日から「ギリシャ神話の基本」に入ります。多くの人がとまどう「旧約聖書ギリシャ神話かわからない」という部分も明快に分別して、ギリシャ神話のテーマを得意技にして帰って頂こうと思っています。

https://hakutaka-shop.jp/academy/02/enomikata.html

 

 

【誰も言わない琳派美術史その⑬】■琳派というコンセプトを作ったのは、酒井抱一。世が世なら姫路城のお殿さまだったかも知れない江戸琳派の巨匠■

前回、光琳は日本美術史におけるラファエロだと、大見栄な説を展開しました。その光琳を継承する人は、およそ百年後に登場します。酒井抱一1761-1829)です。抱一は姫路藩主、酒井忠以(ただざね)の弟として、お江戸の、いまの東京駅の前あたりにあった藩邸に生まれ育ちました。江戸の天明期の開放的な空気の中で、文人でもあった兄のサロンに出入りして多感な青年期を過ごし、絵画やお能、茶道のほか俳諧狂歌にも親しみ、遊里にも出入りした様です。藩主となった兄には子供がなく、万一のばあいには兄の養子となって跡を継ぐことが予定された身分でしたが、ありがちな事ではありますが、兄に子供ができる。お家騒動の火種になるのを避けたのか、主家への遠慮なのか、抱一は最終的には武門を捨てて出家し、吉原の花魁をもらい受けて奥さんにして、下谷根岸のあたりに隠棲する市井の絵描きとなります。世の栄達を捨てた抱一の画技は、それ故か精細で無心の自然愛に満ち、得も言われぬ気品と色遣いの巧みがあって、とても旦那芸などとは言えない超一級の域に至ります。それだけでなく、文化のプロデューサーとして、豊かな教養と眼力で光琳を発見し私淑し、光琳百年忌(文化12=1815)には、法要や出版、展覧会などの顕彰事業を推進します。

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光琳による 《風神雷神図屏風》東京国立美術館

f:id:iwasarintaro:20190831135311p:plain 抱一による模写 《風神雷神図屏風出光美術館

 

中でも、「光琳百図」を図録としてまとめ、また「緒方流略印譜」(おがたりゅうりゃくいんぷ)を刊行して、今日の「琳派」といわれる日本の美を系譜化してまとめ上げたのは、きわめて重要な日本美術史への貢献と言うべきでしょう。ちなみに「略印譜」とは、画家の印章と署名とを集めて系列化し、これにコメントを加えたもの。近代美術史上でも特異な、百年間隔で現れた三つの山——つまり宗達・光悦の時代、光琳・乾山の時代、そして抱一の時代——を、時空の隔たりにも拘らずひとつの山脈として発見し、自身をも敬慕する光悦、光琳に連なる作家として位置付けた訳です。抱一無くして琳派の誕生はあり得ませんでした。ただし、「琳派」というネーミング自体は抱一が作ったものではなく、「緒方(尾形)流」が明治以降「光琳派」と改められ、さらに近年つづめた言い方の「琳派」となって、定着しています。 

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当初、光琳の《風神雷神図屏風》の裏面に描かれた抱一の《夏秋草図屏風》(国宝・東京国立博物館

ところで三つの山には共通する特徴的なキー・コンテンツがあって、《風神雷神図》などその最たる事例。宗達のそれが、リスペクトの証しか暗合のように光琳、抱一によって模写されて受け継がれていきます(上の画像)。展覧会などで皆様も見ておられることでしょうね。

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 鈴木基一《夏秋渓流図》根津美術館 

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 速水御舟《銘樹散椿》山種美術館

さて、琳派はさらに後世に影響を与えます。抱一の直弟子は、鈴木基一。近代グラフィックの開祖かも知れません。大正、昭和の速水御舟らの日本画の感性をも貫流し、戦後のグラフィック・デザイナー、田中一光らにまでも延々と影響を及ぼしています。というか、我々の感性はいまだ琳派と地続きで、同じ美意識の住人でもあるとも言えるでしょう。それゆえ、僕は「東京の名画散歩」(舵社)を数年前に上梓した時、副題を「琳派がわかれば絵画は分かる」としたのでした(琳派の項、完)。

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ 

長期にわたる拙文を、我慢強くお読み頂いた皆さまにお礼申し上げます。13回でようやく終止符を打つことができました。まだ、家康と光悦の関係の真相とか、そこに京都所司代板倉勝重がどう絡んだのかとか、家康の刀剣コレクションと美意識など語りたいことはいろいろありますが、しつこいので(笑)、それらはまたの機会に。

 

 

 

 

 

 

 

誰も言わない琳派美術史その⑫光琳は、日本美術史のラファエロである、と位置付けて我が琳派シリーズを終わろうか

読者の皆さま、暑中お見舞い申し上げます。健やかな夏をお過ごしください。

 

光琳は、日本美術史のラファエロである、と位置付けて我が琳派シリーズを終わろうか■

 

何だか最後に唐突な話になって、読者の方は戸惑われたかもしれません。光琳がなぜラファエロなのか、紐解いていきましょう。

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聖母子像でよく知られるラファエロ・サンティ(1483-1520)は、ミケランジェロダ・ヴィンチと並ぶ盛期ルネサンスを代表する画家です。どこが偉大なのかというと、彼の画法がそれまでの先人や同時代人――リッピやボッティチェルリ、ギルランダイオやもちろんダ・ヴィンチミケランジェロなどーーのスタイルを摂り入れていて、ラファエロを見ると美術の歴史がすべて流れこんでいるように感じさせるからです。また同様にラファエロからすべてが流れ出ているように感じさせる、言ってみれば大きな包容力と代表性を備えているのです。

 

確かにルネサンスの偉大な画家は多くいますが、死後400年にもわたって絵画の世界のお手本となり、近代絵画にまでずっと影響力を発揮したのは、ラファエロだけです。なぜそんなことが可能だったか。ラファエロは人の絵の特徴を巧みに取り込む、模写の才能はもちろんありましたが、それだけではこうは行きません。彼の凄さは、人物の描写に、巧みにギリシャの女神に見るような美のモデリングを忍び込ませていた点です。個性を主張しすぎず、トレンディになりすぎず、誰もが伝統美として持っていたギリシャ美の感覚――それはキリスト教絵画であるビザンチン美術に押されて、千年以上、地下に潜伏していた――を自分の画風に密かに復活したことによります。たとえばドレスデンにあるアルテ・マイスター絵画館が所蔵する、《システィナの聖母》をご覧ください。このラファエロは、新しいと思う人には新しいが、古典的な厳格性もそなえ、誰もが反対できない全方位的を備えています。ラファエロとミロのヴィーナス。一見唐突なようですが、実は地下水脈で繋がっていることを感じて頂ければ、有り難いです。

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さて、それでは我らが尾形光琳1658-1716)はどうか。ラファエロよりおよそ200年後の人ではありますが・・・。実は光琳も歴史の流れを、一身に取り入れています。代表作の一つ、上のメトロポリタン美術館の《八橋図屏風》など見ても、画題は平安時代の歌物語である「伊勢物語」に端を発しています。在原業平を主人公とする恋と多くの逸話の物語です。そこから鎌倉時代に《伊勢物語絵巻》が生まれます。大阪府和泉市にある久保惣美術館で見れますが、優美な王朝趣味の「やまと絵」と光琳の絵とは、もうイケイケの関係。グラフィックで幾何学的な平面の処理や金紗の多用、植物のモチーフなど、光琳もまた、平安時代の王朝思慕をしっかり復活させ、古人を受け継いでいます。

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また、本阿弥光悦1558-1637)と並ぶ琳派の開祖、俵屋宗達1570年ころ生誕か、没年不詳)の、《風神雷神図》を模写していることもよく知られています。これは光琳琳派の先人に連なる画家・工芸家であることの積極的な意思表明にほかなりません。光琳の国宝の蒔絵硯箱(左)なども、光悦への明らかなオマージュです。鉛をかしめて、橋を表現するなど、世界観や技法をそのまま受け継いでいますね。

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そんな風に理解すると、光琳の《八橋図屏風》の屏風絵は、平安、鎌倉と続く時代の美意識の変遷をフォローして、しかも前の時代のキンキラして豪壮な桃山美術の感覚も、抜かりなくカバーし、日本の美術史を一身に凝縮した作品であることが見て取れます。そればかりか、光琳模様で見たような図像の記号化・デザイン化を達成して近代化を進め、その後の酒井抱一の江戸琳派につながり、明治以降の日本絵画にまで影響力を発揮し続けます。何とも長い時間軸です!次回、ファンも多い江戸琳派と抱一の話で、今度こそは(笑)、琳派シリーズの筆をおきます。

 

和泉市久保惣記念美術館 http://www.ikm-art.jp/

伊勢物語絵巻》「デジタルミュージアム

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010001000.html

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ  

 

 

誰も言わない琳派美術史その⑪.美術史琳派は花鳥風月の伝統美をデザイン化して、遺伝子のカプセルにした

過密な講演活動に追われて、ニューズレターをお休みさせて頂いていました。今回から配信を受ける方もいらっしゃいますので、始めにこれまでの琳派のシリーズ10回分を簡略にまとめた上で、結論に向かいます。

 

話は昨秋のモミジの頃、運よく抽選に当たって京都の修学院離宮を見学できたところから始まります。比叡山を背に洛北の雄大ランドスケープが晴れやかに広がり、市中に目を向ければ御所も京都タワーも一望のもとです。逆に二条城からだと、離宮は標高もあるし隠れて見えなさそう・・・。この地点に立って僕は、離宮を造営した後水尾上皇の意図がよく解った気がしました。自分の住む御所にへばりつくようにある二条城から、徳川にいつも監視されるのは実にうっとおしい!いっときでも徳川のいない世界に住みたい、そう言う気持ちだったのではないでしょうか。後水尾上皇の后は徳川家康の孫娘、和子(まさこ)でした。2代将軍秀忠の娘です。上皇は妻に金持ちの実家にねだらせて、壮大な別荘を郊外に作る。ざあま見ろ!とこれで少しは意趣返しの快感を味わったかもしれない。和子に賢明さと度量があったから出来たことではあります。

 

 

そのように修学院離宮の成立を読んで、僕の推理は動き出しました。一般に琳派芸術の始まりは1615年、本阿弥光悦が家康から鷹峯の土地を下賜されて作った芸術村から、とされます。でも芸術村を一族で作っただけで琳派が出来たなどというのは、作り話めいて暢気すぎるし根拠が薄弱です。「芸術村」の本質は実は、残された屏風絵にも見るような和子の入内と壮麗なパレードのための、膨大な結婚調度や武具、衣装、イベント什器の一切を製造するための徳川の密命工場ではなかったかーー他の誰もが言ってない僕の解釈です。 

 

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ところでその盛大な発注をこなすためには、個人の芸術家や職人が一品ものを悠長に制作していてはとても追いつかない。そこでこれまでのモノづくりをガラリと変え、光悦がディレクターとなって、分業制で異分野をデザインで統率するシステムを作ったわけです。近代マニュファクチャリングの始まりです。このプロセスの中で、美術史上のとても重要な革命が起こります。量産の要請にこたえて、花鳥風月の伝統はシンプルにパターン化され、着物にも生活器にも自由に転用と複製が効くように、「デザイン」としてユニット化されます。記号的な視覚言語の誕生!琳派の最大の特質は、このデザイン化にあります。 

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さて、光悦に続いて琳派を中興したのが、光悦の血を引く尾形光琳です。和子は桁外れの着物道楽でしたから、徳川の財力は京の呉服商「雁金屋」を富ませ、その息子を天才として世に送ります。琳派芸術にとって、具象図形のデザイン化、単純化は呉服と切り離しては考えられません。上に貼り付けた松や千鳥、鶴などに見る巧みなデザイン化は、光琳が発明した訳ではありませんが、18世紀には「光琳模様」として確立し、着物などで人気を博したものです。また光琳による「燕子花(かきつばた)図屏風」(国宝)など、絵画であると同時に、壁紙かテキスタイル・デザインにも見えます。フラットな装飾性と極端に少ない色数。ある種の非情さを含んだ無機質な美をもたたえ、琳派時代感覚の斬新さが、燦然と輝いています(つづく、次回最終)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家  

 

誰も言わない琳派美術史その⑩。琳派の本質は、複製と転用の効くデザイン力なのだ

閑話休題】まだ桜が咲き残る4月なかば、僕は何十年ぶりかで鷹峯の光悦寺を訪ねました。目的は光悦寺はどのあたりにあったのか曖昧な記憶を正したいのと、今も当時のままと思われる光悦村の大通りを実見し、実際に千本通につながっているのを確認したかったので。

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何人かの方からもご質問をいただいきましたが、まず光悦寺のロケーションは北山通りのまだ北なので京都の北のはずれ、しかも西端です。また光悦寺は本阿弥光悦の私邸跡にそのまま出来たものではありません。そこから少し西に寄った本阿弥家の「いはい所」(図の左、緑色)を整備して寺となっています。光悦寺でも確かめたら、お坊さんからやはり同じことを言われました。また現在の町割りは当時と変わっていないそうなので、道路も昔のままでしょう。この日僕は、境内にある光悦の墓に参り、今日の日本のデザインの開祖に手を合わせてきました。秋の紅葉で有名な光悦寺ですが、眼の前の山が花札の坊主のように丸くて、比叡山や遠く東山連峰を見遥かす眺望のいいお寺でした。

 

さて僕はついで、古地図では「通り町すじ」と表記されている南北の大通りに向かいました。光悦や一族の屋敷が並んでいた通りです。南に向かって僅かに下る道を歩き、光悦の家はこのあたりだったかと、それと思しきあたりの現在の風景を写真に撮りました(上右)。帰り道、道路を確かめようと、千本通を北上してきたバスに乗ったら、バスはこのあたりをループして、また千本通に戻っていきました。なので昔の「通り町すじ」はそのまま間違いなく二条城に続いているのを確認しました。そうなると逆に光悦村の立地は、千本通の延長上にあったから選ばれたと考えることもできませんか。光悦村が実は和子入内の結婚調度品を作る工場で、納品は千本通を最短のハイウェイにしてその都度、京都所司代の与力や同心に警護されつつ二条城に入る。入口でも二条城に隣接する京都所司代の屋敷での検品がある、そんな推測が俄然確たるものに感じられてきたのです。

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cid:image003.jpg@01D50E2B.E6D15A00cid:image004.jpg@01D50E2B.E6D15A00余談が多くて、琳派芸術の本質を語るのが遅くなりました。上の2点の尾形光琳による作品をご覧ください。左は六曲一双の《八橋図屏風》の右隻、メトロポリタン美術館蔵。日本にあれば国宝でしょう。右は東京国立博物館の持つ八橋蒔絵螺鈿硯箱》(やつはしまきえらでんすずりばこ=国宝)。作った本人がどのように意識していたかは分かりませんが、「絵画からデザインへ」、歴史的に見ればジャイアント・ステップがここで踏み出されているのを見て取れます。橋や植物など具象的なものの図案化が始まっているのです。しかも図案化されたがゆえに、デザインのアイデアは自在に拡大縮小して、右のような生活雑器にも転用・共用されることになります。工業的なマニュファクチャリングの萌芽をここに認めることができます。さらに言うならば、光悦や俵屋宗達などから連綿と続いているグラフィックな空間処理(隙間が多い)は、現代のデザイン感覚からも大いに崇敬されていますが、実はシンボル化した文様を、大きさや方向性にかかわらず矛盾なく処理して格納するための必然でもあったのです(つづく)。

 

 

岩佐倫太郎 美術評論家  

 

■誰も言わない琳派美術史その⑨。琳派によって絵画はデザインとなり、生活用具となった■

文明史的に言うと、琳派芸術は近世から近・現代へとても重要な美術上の橋渡しをしています。狩野派織豊政権の居城を飾ったり、徳川政権の二条城を装飾したのは事実です。しかしこの時代、絵画は潤沢な資金を持った権力者だけが発注する贅沢な注文生産品でした。狩野派の勇壮華麗な絵のタッチは描く側に任されるとしても、画題そのものは相当発注者の意向が入った、一品きりのオーダーメイドでなされた訳です。

 

ところが琳派になりますと、いささか事情が違ってくる。ちなみに僕の自説では、光悦が家康の孫娘の入内のための結婚調度を請け負ったときの特需経済が琳派の始まり。その結婚調度品というのは、屏風などの絵画よりも食器、家具など生活用品や着物類など実際的なものが中心になっていたのではないかと思われます。そうすると例えば、碗や皿を作る場合でも、全くの単品制作ではありえず、何客分かのセットとして作られるのが前提でしょう。数量生産をしないといけない。しかも調度品全体を見たばあいも、一定のセンスやグレード感で統一されていることが望ましいと考えるはずです。その上、三つ葉葵の御紋など、今日でいうロゴマークを入れるとなれば、全製品のつくりかたは既に個々の工人の手仕事で完結するのでなく、集団的なマニュファクチャリングに移らざるを得ません(それゆえ鷹峯の光悦村が必要だったんです)。

 

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和子入内の様子を描く屏風絵が発見された

このような生産体制になじむ絵画とは何か?この時、絵画は従来の絵画のままで留まることが出来ず、「デザイン」という複製の効く汎用性を持った存在に、踏み出さざるを得なかったと僕は考えます。この辺がデザインが発生する重要なポイントです。琳派というと狩野派などの絵画集団と横並びで比較されたりしがちですが、絵画の専門集団と捉えない方がいい。むしろ、後年の大衆的な文化の時代を先取りし、工業化・複製化のニーズに「デザイン」で対応し、生活調度品や着物などライフスタイル全般を供給した制作集団だと考えた方がふさわしいでしょう。棟梁の光悦にしても日本で最初のアート・ディレクターとして、調度の全デザインを統括し、その上、仕入れから制作、納品管理まで統括するプロデューサーという、時代が求める新しい職能を遂行した人だと言えます。

 

ただし、この17世紀の初めの頃はまだ、デザインと言っても発注者は徳川将軍や皇室、有力寺社などの占有物だったでしょう。それがやがて元禄時代など市民階級が勃興する時代になって、新しい富裕市民層も生まれてまいります。光悦に続いて、琳派を中興した尾形光琳呉服商の生まれであったことも、天の配剤と言っていいのか、実に運命的でありました。彼が呉服商の息子でなければ、恐らく光悦の琳派は継承されることも無く途切れ、したがって抱一の江戸琳派も生まれることは無かったでしょう。琳派芸術にとって、切り離せない呉服と琳派の特性の関係性。長くなるので、次回に続けさせて頂きます(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家

誰も言わない琳派美術史その⑧。琳派は、家康の孫娘の入内という特需経済から生まれた

ローマ法王庁ミケランジェロを重用して、美術の宝石箱とも呼べるシスティナ礼拝堂を遺したように、またスペイン王室がベラスケスらの画家を保護して、後のプラド美術館のコレクションが生まれたように、信長、秀吉、家康ら日本の権力者も、文化のパトロンとして日本美の財産をつくりました。「美」というものは、絶大な権力に庇護されたときにだけ、妖艶な大輪の花を咲かせる──そんな気むずかしい美女のような性格を持っているようです。信長や秀吉の時代、彼らは天下人として君臨する象徴として、安土城、桃山城、聚楽第などを新築します。普請道楽と言われます。その時、巨大な建築の広大な壁面を飾るのは「狩野派」の金碧屏風や襖絵です。例えば下の「檜図」のような、居並ぶ大名たちを睥睨し平伏させる、いわば威圧の舞台装置として勇壮で威厳に満ちた狩野派の絵が、必然として好まれたわけです。僕は日本人がワビサビとは対極の、陽気で外向きなエネルギーに満ちた、今なら「ケバい!」と退けられそうな美意識の時代を持っていたのをとても面白く感じ、高く評価しています。

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さて、織豊政権が「狩野派」を育てたのなら、三英傑の一人、家康の時代は、ようやく訪れた平和の時代と豊かな財力をバックに、「琳派」という新しい日本美の系譜を生みだします。その契機になるのは、家康の孫娘、和子(まさこ)の元和6年(1620年)の宮中への入内です。天下を手中に収めた家康にしてみれば、徳川の血が皇室とつながるのは、最後で最大の願望だったでしょう。何年も前に申し入れていた婚儀が、家康の死後にようやくかないました。近年発見された六曲一双の「洛中洛外図屏風」は、その家康の孫の壮大な婚礼の盛儀のパレードの模様が見て取れる唯一の貴重な資料です。長持ちを持った先頭が早くも御所の南門をくぐっているのに、二条城からもまだまだ従者の列が続々と出発している・・。そんな光景が実に達者な筆致で精細に描かれています。想像を絶する徳川家の財力の誇示には、物見高い京雀でさえもさぞかし驚愕し、秀吉恩顧の西国大名も打ちのめされ、反乱の機運もあえなく摘み取られたのではないでしょうか。

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ところで、このときの膨大な特需は、美術だけでなく、輿などの乗り物、食器などの生活雑貨や着物などにまで及んだはずです。日本における初めてのトータルなライフスタイル・デザインの記念すべき誕生です。もし、光悦村が世に言われるように芸術家たちの単なる隠遁村であったなら(それにしては8万坪とは異常な広さですが)、ここまで美術史上の大きな勢力になりえなかったことでしょう。巨大な政治目的を背景に、大量のお金が動いたからこそ、55軒もの職人たちの集団移住も可能となり、「琳派」と言う新しい美の源流が流れ始めた訳です。これが次の時代には富裕な町人層にも大きな影響を与え、江戸時代を脈々と貫流します。それどころか、琳派は現代のわれわれの美意識をも、今なお規定しています。出自の独自性から生まれた琳派の特質を次回語って、このシリーズを終えたいと思います。

 

 岩佐倫太郎 美術評論家  

 

615日(土)東京駅前の新丸ビル京都大学東京オフィス」での第2回講演会。

 

マティスピカソの中に北斎を見た」~ここが、西洋美術を理解する勘どころ~

 

15:00~17:00 於;東京駅前新丸ビル10F 京都大学・東京オフィス 50人限定時 

お申込み方法 このメールにお名前と人数をご返信ください。

費用 4000円(税込み) お申し込み頂いたのち、■口座;三菱UFJ銀行 玉川支店 1499165 イワサ リンタロウまでお振込みください。(ご予約はお振込みを持って自動的に確定致します)