②モナ・リザは、般若心経である。

「この名画はなぜ名画なのか」シリーズ 

ダ・ヴィンチ 《モナ・リザ》② 

モナ・リザは、般若心経である。

いきなりトンデモ説のタイトルみたいですが、別にモナ・リザが仏教だと言っている訳ではありません(笑)。ダ・ヴィンチの膨大な手稿(=科学ノート)の存在を知ると、モナ・リザと手稿は不即不離の一体であることが理解できます。その手稿のエッセンスを凝縮して、誰にも受け入れやすい形にしたらモナ・リザになる、という趣旨です。両者の関係を膨大な大般若経と、それを260文字にダイジェストした般若心経の関係に見立てた、だけのことです。

なので絵を単独で切り離して、美術品として鑑賞して何らかの美を見出そうとしても、無理があるというものです。モナ・リザは文字こそ描き込まれていないけれど、着彩もされてダ・ヴィンチの思想を発信しています。ダ・ヴィンチの深奥を覗く小窓かもしれません。

 

それではモナ・リザの絵が伝えようとしている「教義」とは何でしょうか。ダ・ヴィンチは「絵画論」において、絵画は科学でなければならないことを一貫して語っています。また霊魂を完全否定して、「科学上の経験のないところに真の知識は生まれない」と断言します。つまり科学的世界観を描く技術こそが絵画である、ときっぱり定義しているのです。驚きますよねえ、まだ中世の迷信や祈りが幅を利かせて、全てを神の思し召しとしていた時代、ダ・ヴィンチは早くも人体解剖を行い、人間は母親の子宮から生まれ、人間の活動を支配するのは脳の働きであることをすでに知っていたのですから。彼こそは真のルネサンス人でした。

  

ではモナ・リザの絵に込められた科学性を、そのつもりで見ていきましょう。まずいちばん右奥の雪山です。雪は解けて湖へ、さらに川となって下流へと大地を削りながら蛇行するのを模式的に表しています。その水の流れとモナ・リザの胸像が重なっているのは決して偶然ではないでしょう。多くの人が指摘するように、地球を輪廻する水と人体の小宇宙を巡る血流が実は同じ原理である、という真理の表明でしょう。ダ・ヴィンチ雄大で洞察に満ちたコスモロジー宇宙論)を視覚的にプレゼンしています。

また背後の峩々たる山並みは、僕の考えではイタリアにも多いカルスト地形で、海の生物が堆積してできた石灰質の隆起して浸食された表現です。ダ・ヴィンチは高い山にある貝やサンゴの化石に興味をもって、大地もまた輪廻していることに思いが及んだ先進的な地質学者でした。今で言うプレートテクトニクスです。なので山がおどろおどろしいのは、ダ・ヴィンチが終末思想を持っていたからなどという解釈は、全く間違いです。

背景の色合いについては、手前から遠くへ、緑から青、そして灰色へと変化して、空間の奥行きを感じさせます。これはダ・ヴィンチが発明した「空気遠近法」で、彼の受胎告知の作品でも使われる技法です。

さていよいよ、話をモナ・リザ本人の顔やポーズに移したいところですが、長くなったので次回に。僕はモナ・リザの座る空間の謎を自分で解明してみて、驚きを隠せませんでした(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ

①モナ・リザは、本当に美しいでしょうか?

「この名画はなぜ名画なのか」シリーズ 第6回 

ダ・ヴィンチモナ・リザ》① 

モナ・リザは、本当に美しいでしょうか?

パリのルーヴル美術館。世界でもっとも有名な絵画と言われるモナ・リザ(1503‐06制作)は、セーヌ河沿いの「ドゥノン翼」の建物を2階に昇った中ほどに、厳重な防弾ガラスに守られて常設展示されています。意外と小さいです。実際にご覧になった方も多いと思いますが、縦77cm、横幅53cm。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)が1516年、フランス王のフランソワ1世に招かれて居城と年金を与えられる厚遇を受け、亡くなるまで肌身離さず手許に置いたという作品です。彼の死後、フランス王室が買い取り、フランス革命ののちルーヴルで一般公開されるようになります。

ところでモデルとなったモナ・リザとは誰なのか?フィレツェの豪商ジョコンドの夫人、リザであるとの説はダ・ヴィンチの少し後の時代の伝記作家で画家・建築家でもあるヴァザーリの記述に基づきますが、ほぼその見方が定着しています。

さあ、それでは「モナ・リザは本当に美しいのかどうか?」という本題にいよいよ入ります。僕は昔から、この絵を美しいと思えませんでした。一瞬マリア像を思わせるものの、むしろ不気味ささえ感じていました。ダ・ヴィンチの絵を美しいとする人の説明はたいてい、「天才ダ・ヴィンチの名画だから」とか、「有名だから」とか言うもので、あまり説得力を感じませんでした。また不可解なことに、美術の専門家ですら、「謎めいているから美しい」などとムリヤリな論を展開して、「美しい!」と思い込みたがっているように見えます。でも近年、僕が至った結論は、「モナ・リザは別に美しくない、それでいいのだ!」と、天才バカボンのおやじのように達観しています(笑)。

というのも、ダ・ヴィンチは鑑賞の対象となるような美しい絵を描こうとはしていないからです。絵の目的が違う。ダ・ヴィンチは画家である前に99パーセント科学者であり発明家です。そう言う根拠は今も5千枚以上残る膨大な「手稿」です。手稿とは、文章と挿絵による手書きのノートのこと。万能の天才が宇宙の森羅万象に関心を寄せ、天文、地理学上の観察と仮説、あるいは人体の解剖図、建築・土木の発明などを記録したものです。3分の2が散逸したと言っても、5千ページというボリュームは単行本の何百冊かにゆうに匹敵します。まさにルネサンスの偉業、大金字塔です。逆に絵画作品は有名な割には驚くほど少なく、生涯わずか15点程度しかないのです。

マイクロソフト創業者のビル・ゲイツが40億円相当で購入して有名なレスター手稿 キリスト教神学と全く違う観察にもとづく天体論を展開している

それではなぜ科学者で発明家のダ・ヴィンチが、モナ・リザのような絵をわざわざ、ポプラ板に絵具で着彩して描いたのか?まさか日曜画家のように、忙しい本業の合間に趣味として絵を描いたのではない筈。ここから僕の推理は始まります。ダ・ヴィンチにとって絵とは何であったのか?手稿と油絵の関係は?モナ・リザに隠されたメッセージとは何か。次回、モナ・リザの読み方について、おそらく驚きの私論を開陳します(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ

あけまして おめでとうございます。

あけまして おめでとうございます。
新年早々、思いがけない能登の震災。被災地の皆さま、ご友人に心よりお見舞い申し上げます。

さて、辰年にちなむクイズです。日本でいちばん龍が多く棲息している都府県は、どこでしょうか?小生の観察では京都がいちばんです。お寺の天井などに居住して、その霊力で邪を払い地上の安寧を守っています。ときに夫婦で住み込んでいるばあいもありますね。多くは寡黙に仕事をこなしますが、なかには手をたたいて呼ぶと鳴いて返事をするひょうきんな奴もいます。また画像の祇園の有名寺院のように、方丈の間で接客につとめるサービス精神旺盛な龍も見られます。
 西洋の龍のばあいは、異教徒として成敗されることが多いのに比べて、東アジアの龍は稲作に不可欠の水の神になったり、豊作のシンボルとして珍重されて、人間と平和に共存しています。排除しない寛容の精神ですかねえ。

2023年の音楽日記

【2023年の音楽日記】

今年(2023)は正月に、吉村ひまりちゃんという 11 歳のバイオリニストを聞きに行きました。天才少女などとはもう呼べないくらい音楽性が確立していて、演奏のオーラに感銘を受けました。体が成長したらどんな演奏家になるのか、とても楽しみです。
バイオリンでは、僕の好きなモルドバコパチンスカヤが来ました。昔からバイオリンの美姫として知られますが、予想を裏切るアグレッシブな探求心にあふれた演奏!ヤナーチェクに開眼したのはそのお陰です。
7月は恒例の佐渡オペラ。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」。高尚ぶっていないのに毎年高いクオリティが続きます。ダブル・キャストで日本人組の主役の大西宇宙、騎士長の娘役の高野百合絵らは、外人組に全くひけを取らない素晴らしい実力を示してくれました。
8月はびわ湖ホールで往年の名ソプラノ、林康子が若手歌手を指導する研究会に2日間通いました。業界人でもないのに変態的ですが(笑)、朝から夕方まで歌唱指導の現場を一般にも開放して、勉強になり、エンタメとしても最高!でした。
秋は来日したボローニャ歌劇団の、「ノルマ」と「トスカ」。ノルマではメゾ・ソプラノ、脇園彩の驚きの美声と歌唱力に出会えたのも、今年の収穫。



ところで話は変わりますが、夏にドン・ジョヴァンニを観て、僕はなぜこんな荒唐無稽なまでに不届きな物語が可能だったのか、ずっと不審に思っていました。キリスト教の倫理観からすると、とんでもなく不埒だろうと。作家は、「フィガロの結婚」や「コジファン・トッテ」も担当したヒット・メーカーのダ・ポンテです。
主人公は千人切りで知られるドン・ファンで、情交した女の数を自慢して、足が2本あってスカートを穿いてりゃ何でもいいのさと、多情な博愛ぶりをアリアで自慢します。欲情余って、女の棲む館に姦通目的で忍び込み、出食わした父親を剣で刺殺して逃亡。ついに死んで幽霊となった父親に焼き殺されるという、セックス、殺人、カルトと何でもありの物語。オペラが上品で高級なものと思う人にはびっくりポン!
ぼくはこんなドン・ジョヴァンニを生んだ源流はシェイクスピアだろうとあるとき閃きました。シェイクスピアは17世紀初め、古代ギリシャの悲劇に範を求め、神の重力を排除した生身の人間の愛憎や、権力欲、孤独などを怜悧に追求して(これぞルネサンス)、人間100パーセントで世界説明をするモデルを再構築しました。
ダ・ポンテはシェイクスピアを下敷きに、そのあとに続くフランスの喜劇作家(で役者)のモリエールの伝統も受け継ぎ、彼の「ドン・ジュアン」なども底本にしながら、ドン・ジョヴァンニの台本を完成させたのではないか。人間の愚かさや狂気を冷徹に、あるいは諧謔的寛容をもって、恐れの身震いと笑いを同居させて見事成功しています。人間ってどうしようもない奴だーーこの系譜が、ダ・ポンテとモーツァルトの作るオペラなんだと理解にいたりました。

さて2024の舞台の楽しみは、3月、びわ湖ホールの「ばらの騎士」そして4月、文楽豊竹呂太夫師匠の待望の十一代目若太夫襲名公演(国立文楽劇場)です。

辻井伸行 ショパン 別れの曲 (12のエチュード作品10 第3番)を聴く

辻井伸行 ショパン 別れの曲 (12のエチュード作品10 第3番)を聴く

 

(2023年の)11月25日のこと、サッカーのヴィッセル神戸の初優勝を見届けて、体の興奮が冷めやらないままTVを見ていたら、BSフジで僕の好きなピアニストの辻井伸行の海外音楽紀行をやっていました。この番組は昔から良くできたドキュメンタリーのシリーズで、たとえば数年前、シドニーのオペラハウスでベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を地元オケと協演した回など僕は録画を今も残しています。このとき指揮はアシュケナージで、辻井君(と呼ばせてもらっていいか?本当はそんなに気安く呼べないんだけど)は、若い時代のべートーヴェンの溌剌とした生気や憧憬、また農夫的な味わいを清冽に表現し、オーケストラを牽引してとても感動的でした。

そして今回のは、パリでのショパン演奏会。公演に先立って、辻井君は中部フランスの田舎に、ショパンの恋人だった女流小説家ジョルジュ・サンドの旧邸を訪ねます。ショパンが毎夏のように出かけて過ごし、数々の名曲を生んだその家です。映像を見るとショパンが使った仕事部屋はしっかりとした2重扉になって、しかも馬の毛を詰め物にして、念入りに防音している。生活音に煩わされず、ショパンが作曲に没頭できるよう考えたサンドの配慮と愛情が垣間見えました。年上のサンドでしたが二人は男女の恋愛感情で始まり、その後母親的な愛情も加わり、病弱な天才を庇護したのだと思われます。今日われわれがショパンの音宇宙を享受できるのも、サンドがいてくれたおかげです。

さて、パリに戻った辻井君がシャンゼリゼ劇場でのソロ・リサイタルに選んだ曲目は、ショパンの「12のエチュード」(作品10)でした。練習曲ですから、大向こうを唸らせようといったケレン味ではなく、どちらかというと耳の肥えた聴衆向けに、ショパンの曲想の源泉にじかにタッチするような趣向。とくに第3曲目の「別れの曲」では、僕は知っているはずなのに、初めて聞いた想いがしました。美しいメロディは日本の歌謡曲や子守歌さえ思わせる切ない郷愁に満ちた甘美さで、西洋音楽にこんな通俗なメロディが許されるのかと訝しんだほどでした。こちらが西洋音楽として身構えていたものをあっさり引きはがされ、許されて自分の故郷に帰るというか、無警戒な裸の自由のような解放感を感じたときには、不覚にも涙がこぼれました。

 

ただ一見優しそうなこの曲も、中間部になると曲想はガラッと一変します。現代音楽のような鉱物質なパッセージが連続し、別の曲かと思うほど異質なものが貫入しては衝突し、ショパンによる純粋な音の探求と実験が試されています。ピアニストとしてはセンチメンタルな情緒性だけでは対応できない技量を求められるころです。辻井君の演奏は作曲家と対話しつつ聴衆との間に立って、ショパンの振幅の大きな音楽世界を陰影濃く開示して、深い息をつかせるものでした。番組が終わり僕はTVに向かって拍手しながら、ショパン弾きとしての辻井君の比類のない資質を確信し、この青年をさらに応援したくなりました。

 

■2009年、クライバーンでまだ20歳の辻井伸行が優勝した時の「別れの歌」を、下のyoutube のURLから検索してみてください(3分40秒)。

(21) Twelve Etudes, Op. 10: No. 3 in E Major - YouTube

 

岩佐 倫太郎  美術評論家/美術ソムリエ

ボローニャ歌劇場日本公演、プッチーニの「トスカ」にブラーヴォ!

ボローニャ歌劇場日本公演、プッチーニの「トスカ」にブラーヴォ!

 

はじめて「トスカ」を見たのはもう何十年も昔。そのころ僕はマリア・カラスにハマっていて、ベッリーニヴェルディプッチーニらのイタリア・オペラのLP(!)を熱病のように聞きまくっていました。そこに折よく英国ロイヤルオペラが来日し、NHKホールに雀躍して出かけたのでした。いま改めて昭和音楽大学のオペラ・データベースで検索してみると、何と1979年のこと。このときやって来たテノールが、忘れもしないホセ・カレーラス。劇中ではトスカの恋人役で、まだ前髪も豊かな含羞の青年でした。ヒロインのトスカの役は先年亡くなった貫禄たっぷりの美声のソプラノ、モンセラット・カバリェ、指揮はコリン・デーヴィスでした。

 

年月は流れ、紅顔の美少年(僕のこと―笑)も頭に白雪が降り積もる高齢者となり、マリア・カラスに対する崇敬の念は変わらないものの、ようやく呪縛から自由になり、断続的ではありますがモーツァルト、ワグナーと近年に至るまでオペラを聴き継いできました。そして迎えた今秋のイタリアのボローニャ歌劇場。前日のびわ湖ホールでのベッリーニの「ノルマ」に続いて、翌日は大阪のフェスティバルでプッチーニの「トスカ」とオペラ三昧の連チャンをした次第。

(2023年11月12日)中央の赤い服がトスカ役の並河さん、向かって右の大柄な男性がローマの警視総監スカルピア役のバリトンマエストリさん。自分に体を許せば恋人ともども逃がしてやると嘘の甘言を餌に、トスカに情交を迫る好色な悪代官を好演。左の女性は指揮者でかつボローニャ歌劇場音楽監督のリーニフさん。

ところでベッリーニプッチーニ、半世紀ほど時代が前後するだけでオペラは驚くほど変貌します。19世紀前半のベッリーニは、まだベル・カントの時代。美声を聴かせるのが主眼で、ドラマ性もオーケストレーションもおおむね淡白。ただし、アリアを書くときのベッリーニの才能は別格で、ウケ狙いの商業的な作曲術などと無縁の、アマチュアのように純真無垢な精神が天上的メロディを産み落とし、オペラの宝石として不滅の光を放っています。

 

一方、プッチーニのように20世紀にまたがると、歌と演劇が緊密に結びつく時代に入り、歌手もただ美しく歌えばいいのでなく、役者的な表現力が求められます。オーケストレーションも空間の大きな立体性を備え、今回のトスカでも気づいたのですが勇壮な金管楽器の咆哮はワグナーを髣髴させ、かと思うと弦楽器の響きは深々と沈潜して耽美的。観客に悲劇を予告し、事件後の甘美な慰撫を行い、楽譜がゆるぎなく劇を進行させていました。ちなみにトスカの舞台は1800年のローマで、実際にあった戦争や政権抗争を題材にしているので、ヴェリズモ・オペラ(社会性のある現実的オペラ)の側面もあります。

 

上の画像は先日の大阪フェスティバル・ホールでの「トスカ」のフィナーレ。「ボローニャ歌劇場」の日本での全公演がこの日で幕を閉じ、感激醒めやらぬ聴衆と歌手たちの最後の大盛り上がりの場面です。トスカ役はこの日、体調不良の歌手に変わって日本のソプラノ、並河寿美(ひさみ)が登場して大成功。彼女はかねてからの僕の贔屓の人なので、思わぬ幸運でした。指揮をするウクライナ出身の女性のタクトも明快で運びがよく、散りばめられたアリアの名曲の絶唱場面では、我を忘れて思わず何度もブラーヴォ!を叫んだのでした。

 

岩佐 倫太郎  美術評論家/美術ソムリエ

 

11月4日の宝塚市立中央図書館での美術講演会は、盛況満員のうちに終えることができました。ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。

ノルマとトスカのあらすじは割愛していますが、ご興味のある方は、僕が以前にマリア・カラスのパリ公演(1958年)の映画を見て書いたこのブログのバックナンバーを覗いてみてください。3分割しています。

(2015年のFBのNOTEを再録)Maria Callas マリア・カラス 伝説のオペラ座ライブ  その1 - iwasarintaro's diary (hatenablog.com)

Maria Callas マリア・カラス 伝説のオペラ座ライブ  その2 - iwasarintaro's diary (hatenablog.com)

Maria Callas マリア・カラス 伝説のオペラ座ライブ  その3(最終)2015年5月FACEBOOKのNOTEの再録 - iwasarintaro's diary (hatenablog.com)

カラヴァッジオ 《聖マタイの召命》 この名画はなぜ名画なのか⑤

「この名画はなぜ名画なのか」シリーズ 第⑤回

カラヴァッジオ 《聖マタイの召命》 1600

縦322×横340 サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会(ローマ)

ルネサンスの3大巨匠のひとり、ダ・ヴィンチがミラノの教会の食堂に《最後の晩餐》を描いておよそ百年たったころ、野心と才能を持て余した一人の絵描きが、ローマにやってまいります。ミラノ出身の青年で、名はミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオバロック絵画の創始者にして、かつ殺人犯!喧嘩で人を殺め、逃亡生活の果てに僅か38歳で旅先で客死する、波乱万丈な生を送ったその人でした。

そのカラヴァッジオが1600年、ローマの寺院のために祭壇画、《聖マタイの召命》を描いたところ、たちまち評判となり、彼の出世作となりました。ちなみに切りのいいこの年は、カトリック教会の「大聖年」。ローマでは寺院の新築・改築が相次ぎ、お布施を稼ぐため壮麗な祭壇画・天井画などが大量に発注されます。才気あふれるカラヴァッジオはこのとき、自然光以外には蝋燭くらいしかない薄暗い寺院の環境を逆手に取って、明暗画法(キアロ・スクーロ)を生みだしました。必要な部分だけ明るく浮き立たせ、あとは暗い壁に溶け込ませ、揺れる蝋燭の光であたかも伝説の聖人たちが眼前に出現したかのような幻影効果で、善良な巡礼者たちを大いに感動させたのです。

 

さて絵の解説ですが、まず右端で腕を伸ばし指さしているのがイエスです。若くて痩せて、足元は裸足!そして手前の背中を向けた男は、ペトロ。もと漁師で、のちの初代ローマ教皇となります。ではマタイとは誰か?机の前の髭の男と、貨幣を数える青年の2説があって、後者との見方が今や有力です。ともかく、イエスとペテロはできて間もない教団の基礎を築こうと、弟子のスカウトにやってきた。そして、ドラマが起こるのです。

 

――イエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った(マタイによる福音書9章9節)。

 

簡明極まる記述ですが、身分の低い徴税人が、イエスの声で雷に打たれたように天命を悟り、すべてを捨てて布教の旅に従う――。息詰まるような奇跡的な宗教劇をわれわれは目撃させられることになります。

 

僕はこの《召命》は、ダ・ヴィンチの《晩餐》にカラヴァッジオが渾身の力と自負心で挑戦した作品だと思います。

ダ・ヴィンチ 《最後の晩餐》1495-98 サンタ・マリア・デッレ・グラッツエ教会 4.6×8.8m


両者とも描かれているのは、物語のドラマツルギーが最高潮に達した瞬間。ダ・ヴィンチのばあいはイエスに「裏切り者がいる」と言われて使徒たちが狼狽する場面で、ただし身振りはいささか時代がかって、芝居臭いです。一方カラヴァッジオの人物の振る舞いは、ずい分と抑制的で、その分、より自然なリアル感があります。決して「僕なんかででいいんでしょうか?」とか、大げさに驚いたりはしていませんから(笑)。

じつは、「抑制」こそ見る者の想像を引き出す点で、近代の意識そのもの。後にバロック画家のヴェラスケス、フェルメールらが重要性に気づいて、しっかり取り入れるところとなります。このように読むと、カラヴァッジオダ・ヴィンチを最も正当に継承し、さらに野心的な上書きを施し、その後の近代絵画の流れの始点に位置する巨匠である、と考えることができます。

 

岩佐 倫太郎  美術評論家/美術ソムリエ

 

■11月4日(土)、「美術講演会(無料)@宝塚市立中央図書館」の最終ごあんない

koukishin202311.pdf (library.takarazuka.hyogo.jp)