家康が光悦に与えた鷹ケ峯・芸術村。隠された謎の使命とは何だったのか ②

二条城の成立を調べていて、この城がよくあるように既存の城を修改築したのでなく、

関が原の戦いの翌年に二条の堀川右岸の民家数千軒を立ち退かせて新築したことも

わかりました。とすれば、その人たちはどこへ行ったのか?補償金などあったのか?こ

の辺の記録は、僕の見た範囲ではまったく見当たらない。ひょっとして強制立ち退きに

あった職人たちからの不満がくすぶったので、不穏な火種になる前に鷹が峯に転地さ

せて補償したのか、とも想像してみました。

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自説ではありますが、この3番目の説も蓋然性として無くはない。しかしいくつかの点で

問題があります。家康は絶対的な独裁者です。今の北朝鮮のように。なので立法も司法

も意のまま。それがそこまでお人好な振る舞いをするものだろうか。しかも立ち退きから

15年経ってますから、本当に補償するなら、タイミングとしても遅過ぎる。それに何より、

なぜ本阿弥光悦が代表格で鷹が峯に移らなくてはならなかったのか、と言う疑問です。

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徳川家康1543-1616  徳川幕府1603年に開く   本阿弥光悦15581637 安土桃山から江戸の芸術家

 

刀の鑑定や研ぎを家業とする彼の実家は今出川の北にあって、二条城の敷地にはまっ

たくかかっていません。と言うことで、どうも転地補償説も説得力が弱い。では、いったい

鷹が峯の芸術村は何のために、この時期に、光悦と言う人物を選んで作られたのか?と

言う本題に戻ってしまいます。 通説では、光悦が天皇と近かったために家康に忌避され

郊外に出された等ありますが、ならばそんな人物になぜ扶持(サラリー)まで与えるのか。

法華宗の信徒村を作ったなどと言うのも ちょっとムリがある気がします。  

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この問題を解くカギは、徳川秀忠の息女、和子(まさこ)の後水尾天皇への入内

にある、と気づきました。そう閃いたのは、ある一冊の本を見たときです。

「新発見 洛中洛外図屏風」(青幻)、狩野博幸著。この本は最近発見された

屏風画の解説なんですが、1620年、和子(まさこ)が二条城を出発して御所へ

嫁いだときの豪華絢爛なパレードの模様を、克明で達者な筆遣いで描いています。

資料としても美術としても一級のものです。歴史上、武家の娘が入内するのは

平清盛の娘いらい。それ故、徳川家としても力が入り、これを機会にもはや戦国

の覇者ではなく絶対王である、とのイメージも植え付けたかったんでしょう。外

戚として天皇家の一員となれるし、子供が出来て天皇に即位すれば、秀忠は天皇

の外祖父に、家光は天皇の伯父になる野心もあったに違いない。

 

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この絵では和子に続く6台の牛車の一部が見える。絢爛かつ威儀を正したパレードは京雀を驚かしたはず

 

屏風絵の本をつぶさに見ていきました。先頭はもう御所に着いているのにまだ二

条城を出ていない列もあるといった、延々たる行列。荘重かつ祝賀感に満ちた屏

風画の中心的存在は、和子の乗るひときわ大きく華やかな、葵の紋を散らした2

頭立ての牛車です。輿のひさしは唐破風(からはふ)に仕立てられ、贅を尽くし

て車輪や牛が引く轅(ながえ)も漆と金箔に彩られ、美々しく着飾った供奉者を

引き連れる。輿を先導するのはエキゾティックな装束の奏楽隊や公家たちの輿や

駕籠の列。和子の後ろに従うのは、これもまた華麗な6台の牛車。美しいカバー

をかけた嫁入り道具の長持ちを担ぐ荷役たちも何十組もいるのが見て取れます。

実はこのパレードが鷹が峯の光悦村の誕生とつながってるんです(明後日発行の

最終回に続く)。

「新発見 洛中洛外図屏風」 狩野博幸 青幻社刊 本の画像は青幻舎提供

 

ニューズレター配信 美術評論家 岩佐倫太郎