誰も言わない琳派美術史その⑦。なぜ尾形宗伯と茶屋四郎次郎が光悦の対面に住むのか

去る2019年1月、梅原猛先生が93歳で亡くなられた。哲学者にして歴史家、劇作家で、専門の垣根を越えて雄渾な想像力と思索を展開した、真の自由人で知の巨人でした。ブームになった「隠された十字架 法隆寺論」や「柿本人麿論」にしても、乾燥しきったような既知の文献から、温かい人の血の通った物語を読み解き、新説を展開する方法論は大変魅力的で斬新。僕がいまも私淑する人です。

 

ここで僕が展開している「琳派の謎」なども、先生のそうした影響下にあると思っています。この先の論考は学問ではなく、小説家的な想像の世界です。ただ、文献がなければ何も語らない、何も考えないと言う学者の態度は、職業としては安全かもしれませんが、それだけではどうでしょうか。一片の陶器のかけらから元の壺の姿を想像するように、我々はもっと自由に、権力やお金への欲望、恨みや復讐などという小説的文脈を駆使して、新しい認識に到達することもできるはずですから。

 

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 さあ、それではなぜ尾形宗伯と茶屋四郎次郎が図のように光悦の対面に住むのか。まず、光悦家の家業は代々、刀剣のぬぐい、研ぎ、鑑定などで、家康からは手厚い信頼を得ていたと僕は見ています(根拠を後述するつもりですが、ともかく家康・光悦不仲説は全くの憶説です)。刀剣だけでなく、光悦は「寛永の三筆」と言われるほどの能書家。空海をほうふつさせる筆の遣い手です。茶碗をひねればプロだし、漆芸なども今では国宝になっているように、見事なデザインを支給して斬新な作品をプロデュースしています。光悦はルネサンス期のイタリアの天才同様、マルチプルな才能に恵まれた芸術家でした。しかしながら徳川家の信頼厚い彼にも、ひとつ弱点があった。それは着物なんです。女性の好みの流行やデザインは、女性だけにしかわからないところがある。光悦は金工、木工、漆芸などはよく解っても、着物や寝具などはさすがに苦手意識があったのではないかと推測します。

 

そうした時に、徳川和子の母お江(秀忠の継室)と昵懇な浅井藩出身の呉服商、尾形宗伯ほど頼れる存在はまたと無かったのではないか。お江が前夫と京都の聚楽第に住んでいた時代から贔屓にされて、発注主の親子の趣味をよく心得ています。しかも、宗伯の妻は光悦の姉ですから親戚。失敗が絶対に許されないプロジェクトにおいて、光悦が宗伯と組むことほどテッパンな選択は無いでしょう。 それで光悦は宗伯をサブ・プロデューサーに遇して、向かいに住まわせた。ただし、宗伯にも弱点があって、宗伯の雁金屋は一品制作の高級ブティックなので、こうした大型プロジェクトの経験がない。物量に対する対応力に欠けるんです。そこで登場するのが、代々徳川家に入り込み、商社機能で稼いできた茶屋四郎次郎です。原反の買い付けや支払い代行などは、すべて茶屋が隣にオフィスを構えてバックアップしたんではないでしょうか。あまりによくできた仕組みなので、これは光悦の発想と言うより徳川家直々の指名か、その意向を忖度した京都所司代あたりの差配かもしれません。

 

ともかく琳派発生の源流は徳川家。分けても和子の入内やその後の着物道楽で作った特需経済にあります。その奇異な生い立ちが、実は琳派芸術のキャラクターをしっかり規定しています。その点を次回に(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家  

 

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