誰も言わない琳派美術史その⑪.美術史琳派は花鳥風月の伝統美をデザイン化して、遺伝子のカプセルにした

過密な講演活動に追われて、ニューズレターをお休みさせて頂いていました。今回から配信を受ける方もいらっしゃいますので、始めにこれまでの琳派のシリーズ10回分を簡略にまとめた上で、結論に向かいます。

 

話は昨秋のモミジの頃、運よく抽選に当たって京都の修学院離宮を見学できたところから始まります。比叡山を背に洛北の雄大ランドスケープが晴れやかに広がり、市中に目を向ければ御所も京都タワーも一望のもとです。逆に二条城からだと、離宮は標高もあるし隠れて見えなさそう・・・。この地点に立って僕は、離宮を造営した後水尾上皇の意図がよく解った気がしました。自分の住む御所にへばりつくようにある二条城から、徳川にいつも監視されるのは実にうっとおしい!いっときでも徳川のいない世界に住みたい、そう言う気持ちだったのではないでしょうか。後水尾上皇の后は徳川家康の孫娘、和子(まさこ)でした。2代将軍秀忠の娘です。上皇は妻に金持ちの実家にねだらせて、壮大な別荘を郊外に作る。ざあま見ろ!とこれで少しは意趣返しの快感を味わったかもしれない。和子に賢明さと度量があったから出来たことではあります。

 

 

そのように修学院離宮の成立を読んで、僕の推理は動き出しました。一般に琳派芸術の始まりは1615年、本阿弥光悦が家康から鷹峯の土地を下賜されて作った芸術村から、とされます。でも芸術村を一族で作っただけで琳派が出来たなどというのは、作り話めいて暢気すぎるし根拠が薄弱です。「芸術村」の本質は実は、残された屏風絵にも見るような和子の入内と壮麗なパレードのための、膨大な結婚調度や武具、衣装、イベント什器の一切を製造するための徳川の密命工場ではなかったかーー他の誰もが言ってない僕の解釈です。 

 

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ところでその盛大な発注をこなすためには、個人の芸術家や職人が一品ものを悠長に制作していてはとても追いつかない。そこでこれまでのモノづくりをガラリと変え、光悦がディレクターとなって、分業制で異分野をデザインで統率するシステムを作ったわけです。近代マニュファクチャリングの始まりです。このプロセスの中で、美術史上のとても重要な革命が起こります。量産の要請にこたえて、花鳥風月の伝統はシンプルにパターン化され、着物にも生活器にも自由に転用と複製が効くように、「デザイン」としてユニット化されます。記号的な視覚言語の誕生!琳派の最大の特質は、このデザイン化にあります。 

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さて、光悦に続いて琳派を中興したのが、光悦の血を引く尾形光琳です。和子は桁外れの着物道楽でしたから、徳川の財力は京の呉服商「雁金屋」を富ませ、その息子を天才として世に送ります。琳派芸術にとって、具象図形のデザイン化、単純化は呉服と切り離しては考えられません。上に貼り付けた松や千鳥、鶴などに見る巧みなデザイン化は、光琳が発明した訳ではありませんが、18世紀には「光琳模様」として確立し、着物などで人気を博したものです。また光琳による「燕子花(かきつばた)図屏風」(国宝)など、絵画であると同時に、壁紙かテキスタイル・デザインにも見えます。フラットな装飾性と極端に少ない色数。ある種の非情さを含んだ無機質な美をもたたえ、琳派時代感覚の斬新さが、燦然と輝いています(つづく、次回最終)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家