音楽ホール「フェニーチェ堺」の音響測定会①

こんにちは。今回は音楽ネタです。3日連続のシリーズ。すでにFACEBOOKの友人にはご覧いただいたものですが、興味深く素晴らしい体験だったので、再録してお届けします。 

 

【フェニーチェ堺での音響測定会①】

 

フェニーチェ堺は、堺市民芸術文化ホールの愛称。ほぼ音楽専用ホールだ。今秋のオープンを前に、満席の2,000席の時と1,200席の時ではどれくらい音の伝わり方や残響が違うものなのか、実際に人を入れてみた実証実験が計画され、僕も参加させてもらった。プログラムの始めは、12個のスピーカーを持った球形のスピーカーを舞台中央に置き、昔の豆腐屋のラッパのようなパプパプした奇妙な合成音を大きく出して、会場内各所のマイクで拾う実験。何しろ人間は、生きた音の吸収剤である。まして今の冬場のように、ウール系の服を着る人が多いときは、てきめんに原音は吸収され、あっという間に減衰させられるのだろう。 6,7回同じ実験を繰り返したが、進行役のNHK関連の音響担当の人からは静粛を求められる。実験の目的からすると、我々は人間でなく単なる吸音材なのだ。吸音材が勝手に咳をしたりすることは厳重に戒められる。絶対静寂が求められ肩が凝ったが、それでもゲーム感覚で楽しんで第一種目をクリア。

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次いで皆が待望の、ソプラノ歌手の並河寿美が登場。僕は初めての人だったが、プッチーニ蝶々夫人などで多くの受賞をしている実力者のようだ。なかなか歌の作りが大きくて、舞台映えする歌い方なのだ。この人は国際的にも通用するだろう。大いに好感を持った。 このあと登場したのは、僕のお気に入りのピアノの反田恭平。MBS発のTV番組「情熱大陸」で取り上げられたと思ったら、あれよあれよという間に人気ピアニストになった。今一番切符が売れる若手ピアニストではないか。個人的にはリストの曲をやってほしかったが、ショパンを2曲。彼自身も自分で自分の音を確かめるかのように限界までマックスに弾いたりしていた。こうした声楽やクラシックのピアノソロはそれぞれデータが取られ、今後の微調整にも生かされるのだろう。 さあ、最後のプログラムは地元オーケストラの登場だ。ドボルザークの「新世界」。第2、第4楽章を満席で演奏したのち、あらかじめ予定された800人が退場し、改めて1,200人で今度は第4楽章だけを聞く。ティムパニが打ち鳴らされ、金管楽器が咆哮する、華々しいスピード感あふれる終章。先のと後でどのように違うのか聞き比べ、データも残そうと言うのである。実にエキサイティングな試み。その時、会場で我々はどんな音の変化を体験することになったのか。自分でも興味深かった内容は、さすがに長い文章になるので明日に書かせて頂こう。

 

岩佐倫太郎 美術評論家

 

誰も言わない琳派美術史その⑦。なぜ尾形宗伯と茶屋四郎次郎が光悦の対面に住むのか

去る2019年1月、梅原猛先生が93歳で亡くなられた。哲学者にして歴史家、劇作家で、専門の垣根を越えて雄渾な想像力と思索を展開した、真の自由人で知の巨人でした。ブームになった「隠された十字架 法隆寺論」や「柿本人麿論」にしても、乾燥しきったような既知の文献から、温かい人の血の通った物語を読み解き、新説を展開する方法論は大変魅力的で斬新。僕がいまも私淑する人です。

 

ここで僕が展開している「琳派の謎」なども、先生のそうした影響下にあると思っています。この先の論考は学問ではなく、小説家的な想像の世界です。ただ、文献がなければ何も語らない、何も考えないと言う学者の態度は、職業としては安全かもしれませんが、それだけではどうでしょうか。一片の陶器のかけらから元の壺の姿を想像するように、我々はもっと自由に、権力やお金への欲望、恨みや復讐などという小説的文脈を駆使して、新しい認識に到達することもできるはずですから。

 

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 さあ、それではなぜ尾形宗伯と茶屋四郎次郎が図のように光悦の対面に住むのか。まず、光悦家の家業は代々、刀剣のぬぐい、研ぎ、鑑定などで、家康からは手厚い信頼を得ていたと僕は見ています(根拠を後述するつもりですが、ともかく家康・光悦不仲説は全くの憶説です)。刀剣だけでなく、光悦は「寛永の三筆」と言われるほどの能書家。空海をほうふつさせる筆の遣い手です。茶碗をひねればプロだし、漆芸なども今では国宝になっているように、見事なデザインを支給して斬新な作品をプロデュースしています。光悦はルネサンス期のイタリアの天才同様、マルチプルな才能に恵まれた芸術家でした。しかしながら徳川家の信頼厚い彼にも、ひとつ弱点があった。それは着物なんです。女性の好みの流行やデザインは、女性だけにしかわからないところがある。光悦は金工、木工、漆芸などはよく解っても、着物や寝具などはさすがに苦手意識があったのではないかと推測します。

 

そうした時に、徳川和子の母お江(秀忠の継室)と昵懇な浅井藩出身の呉服商、尾形宗伯ほど頼れる存在はまたと無かったのではないか。お江が前夫と京都の聚楽第に住んでいた時代から贔屓にされて、発注主の親子の趣味をよく心得ています。しかも、宗伯の妻は光悦の姉ですから親戚。失敗が絶対に許されないプロジェクトにおいて、光悦が宗伯と組むことほどテッパンな選択は無いでしょう。 それで光悦は宗伯をサブ・プロデューサーに遇して、向かいに住まわせた。ただし、宗伯にも弱点があって、宗伯の雁金屋は一品制作の高級ブティックなので、こうした大型プロジェクトの経験がない。物量に対する対応力に欠けるんです。そこで登場するのが、代々徳川家に入り込み、商社機能で稼いできた茶屋四郎次郎です。原反の買い付けや支払い代行などは、すべて茶屋が隣にオフィスを構えてバックアップしたんではないでしょうか。あまりによくできた仕組みなので、これは光悦の発想と言うより徳川家直々の指名か、その意向を忖度した京都所司代あたりの差配かもしれません。

 

ともかく琳派発生の源流は徳川家。分けても和子の入内やその後の着物道楽で作った特需経済にあります。その奇異な生い立ちが、実は琳派芸術のキャラクターをしっかり規定しています。その点を次回に(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家  

 

■6月15日(土)東京駅前の新丸ビル京都大学東京オフィス」での第2回講演会。

マティスピカソの中に北斎を見た」~ここが、西洋美術を理解する勘どころ~

一般公募を間もなく開始する予定です。限定50名です。

 

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で、「フェニーチェ堺」の音響測定実験の小生の連載記事をお読み頂けます。

誰も言わない琳派美術史その⑥。鷹峯光悦村の地政学とレイアウトの意味

「鷹峯光悦村ってどの辺にあるんですか?」とよく聞かれます。「京都の北西の隅ですよ」とか「金閣寺の北」とかお答えしています。ともかく秀吉が都市城壁として築いた「お土居」のまだ外側にあるんですから、随分と辺鄙です。

 

ここが言われるような芸術村などでは無くて、2代将軍=徳川秀忠5女、和子(まさこ)の皇室への嫁入り道具を製造する秘密工場だ、というのが僕の自説で、本阿弥光悦はその工場長というかプロデューサーとして白羽の矢を立てられたのだ、と断定しました。なぜか?徳川家にしてみれば、嫁ぐ娘の宮中生活に対応するすべての調度を膨大に用意するだけでなく、もう一つの目的である入内の一大パレードのための衣装、武具、楽器なども大量に準備しないといけない。その物量をこなすだけでなく、品質も最上級が当然求められる。家紋のデザインの配置ひとつとっても格式がきちっと守られ、宮中の年中行事や有職故実に適合する必要があるわけです。ところが武門の出の徳川家はその辺はあまり詳しくない。しかし、今や朝廷に並びかけようかという時に、万一にも「所詮は関東の武家のがさつ者よ」、などと軽んじられるようなことがあってはならない。

 

徳川家は考えたはずです。いったい誰に任せれば、多くの家具・工芸分野にまたがる職人をコントロールして工程を調整し、しっかり品質管理し、朝廷のしきたりに適合する嫁入道具を作れるのか。そう考えたとき、皇室とも行き来があり、宮中の諸行事に通じて、工芸デザイン全般に目が利き、かつ職人の棟梁として重しの効く、と言った条件をすべて満たすのは光悦以外には居なかった。幕府が光悦に土地のみならず扶持まで与えたのは、決してパトロン気分で芸術家を厚遇したのではなく、一族、工人を率いて世紀の一大プロジェクトを絶対に成功させよ、という苛烈な命令を納得させるためのプロデュース・フィーであったと考えた方が、腑に落ちませんか。

 

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さて、上の敷地図をご覧ください。全体では8万坪の土地に55軒の家が並びますが、中心部だけアップしました。真ん中の道路は、「通り町すじ」とあって、道路幅50メートル近くはありそう。北の突き当りはT字路で西側は谷なので、うまい具合に余計な人眼を避ける立地になっています。この道路は、下へ南下するとそのまま千本通りにつながり、何と徳川家の二条城の西端と直結します!仕上がり品をお城へ納入する最短の高速道路です。

 

レイアウトを見てみると、近代工場などのそれと似ています。原材料の運び込みや搬出を考え、敷地内に幹線道路が走り、部品工場が軒を並べています。つまり流れ作業を想定した配置です。光悦の家が中心にあって大きいのは、棟梁で偉いからではなく、ここを最終のアッセンブリ工場にして目を光らせていたのでしょう。光悦のそばに住む弟の宗知や養子の光嵯の役割は、片方が絶えずお金の出入りを管理する出納係、もう一人が材料や仕上がり品の出入りを管理するロジ担だった、と見るのが妥当です。他人には預けきれない仕事上の急所ですから、超身内で固めたのでしょう。さあ、それでは対面に宗伯および茶屋四郎次郎を配したのは何のためなのか。次回に(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家  

 

615日(土)東京駅前の新丸ビル京都大学東京オフィス」での第2回講演会のタイトルが決定しました。

マティスピカソの中に北斎を見た」~西洋美術を理解する勘どころ~

参加募集を間もなく開始する予定です。限定50名です。ニューズレターとFACEBOOKでお知らせします。

 

 

■琳派を生んだのも育てたのも実は徳川家康だ!誰も言わない美術史。その⑤■

 

僕が、「鷹峯光悦村は芸術村などでは無くて、徳川家康の孫娘、和子(まさこ)の皇室への嫁入り道具を製造する秘密工場だった」と新説を発表したのは確か4年くらい前でした。下の画像は光悦寺に残る光悦町の古地図です。最近発見したものですが、特別な資料ではなく公知のもので、僕が気づくのが遅かっただけの事。配置図はそのままに、重要な人物だけは名前を太字に打ち変えて若干加工しました。「へえ、鷹峯の光悦村ってこんなのだったのか」と妙な感嘆をしながら、この地図を見ています。上が北、下が南で京都市中になります。このような地図をまえに、僕の自説に対する確信は深まるばかりです。

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と言うのも、この敷地図って、とてもヘンで新しい郊外団地のような地割です。しかもズドンと南北に、恐らく千本通につながる街路があるわけですが、随分ぶっきら棒だと思いませんか。芸術家たちがコロニーをつくるなら、本来ならもっと紆余曲折のランドスケープを計画して、眺望に配慮があってもおかしくない。しかもこの図には現れませんが、等高線を国土地理院のそれで見ると、京都の僻地ながら高低差がほぼない平坦地のようです。別荘気分で住んでみて面白いでしょうか。こんな村を一斉に作るなんて、とても伊達や酔興の結果とは思えない。仮に土地はタダだったとしても、家を建てるお金が要りますからね。皆一斉に資金を出せたんでしょうか。

 

その疑問はいったん置いておいて、それでは「芸術村」の代表的な人物の住居を見て行きましょう。「通り町すじ」とある道路の右には、上から一つ置きに、光悦の弟「宗知」、養子の「光嵯」を住まわせています。孫の光甫の家だけは左下隅ですが、ともかく直近の家族で固めています。何か僕は他人を信用しない、お金なのか情報なのか、ともかく非常な用心深さのようなものが隠れているような気もします。そして目を見張るのは、やはり光悦邸の敷地の大きさです。村の中の中心地にあってひときわ突出しています。なんと間口は60間とありました。1間1.8mとして、優に間口100メートル超の屋敷と言うことになります。風流な隠遁生活を楽しむのに、もてあます大きさではありませんか。

 

また、「通り町すじ」の光悦邸の対面を見てください。尾形宗伯が家を構えています。この人は、尾形光琳・乾山兄弟のお祖父さん。宗伯は和子やその母、お江(2代将軍秀忠の継室、浅井3姉妹の末っ子)に浅井藩の縁で贔屓にされて、大いに蓄財し、その結果、孫に40歳近くまで遊蕩三昧の生活をさせることになり、光琳という天才を生んだことは先に書いたとおりです。

 

さて、その隣を見て頂きましょう。「茶屋四郎次郎」。徳川家の信任が厚い商人ではありますが、代々世襲の名前でこの時は3代目。果たして光悦らとグループを作るような文化人であったとは思えない。貿易や生糸販売で成功した御用商人がなぜ呉服の雁金屋の宗伯と軒を並べ、芸術肌の光悦と向かい合わせて居を構えてているのか。この図を見ることで、僕の想像は一つの物語に帰着しました。長くなるので次回に(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家                 

 

 

 

■琳派を生んだのも育てたのも実は徳川家康だ!誰も言わない美術史。その④■

下の画像は、「新発見 洛中洛外図屏風」(青幻舎 狩野博幸著)の一部です。描かれているのは16206月、徳川家康の孫娘である和子(まさこ)が、入内した時の豪壮華麗な盛儀の模様です。和子は二頭の牛が引く壮麗な牛車に乗っていて、屋根には丹念に葵の御紋がちりばめられ、武門が皇室へ嫁ぐ晴れがましさを、これでもかと表現しているように思えます。嫁ぐ相手は、後水尾天皇。のちに上皇となって修学院離宮を作ったその人です。屏風絵のほかの部分を仔細に見て行くと、この盛大なパレード、堀川通を北上し一条戻り橋を渡って、先頭部隊は早くも新設された内裏の南門をくぐって婚礼用品の一式を運び込んでいます。史実的にも美術的にも超一級の資料といえます。

 

ところで、僕はこれまで「国体」の開会式や「キッズ・プラザ」のような博物館をプロデュースしてきた経験から、この屏風絵を見てとても気になることがあります。それは一体、こんな立派な道具類やイベントの衣装類を誰がどこでこしらえたのか、いつ運び込んだのかという全体のロジスティクスです。牛車のひさしは唐破風(からはふ)に仕立てられ、牛が引く轅(ながえ)や車輪も贅を尽くして漆と金箔に彩られ、供奉者も美々しい服装です。牛車を先導するエキゾティックな装束の奏楽隊や公家たちの輿や駕籠の列。和子の後ろにもまた華麗な6台の牛車。長持ちを担ぐ荷役たちだけでも何十組もいます。

 

まだ徳川時代の初期ですから、江戸ではとてもこのようなものをつくる能力は無かったでしょう。かといって、京の街中でバラバラに発注したとて、とてもこの物量感はこなせないでしょう。それに第一、噂好きの京雀が黙っていません。そもそもこの葵と菊の婚儀、家康から早くも1614年に皇室に申し入れられてはいたのですが、いい返事をもらえない。まあ、ペンディング状態でじらされていた案件なんです。だからまだ秘匿しておく必要があった。

 

そんな時、僕の頭に閃めいたのは、この婚儀のパレードと、それとは一見まったく何の関係もなさそうな、本阿弥光悦による「鷹峯芸術村」の開設の一件です。1615年、家康より鷹峯の土地を拝領し、光悦が一族や工人たちと移り住んだと言う話。美術史的には、これを持って琳派の始まりとするのが最近の通説です。ところが前回にも書いたように、この話は美談として出来すぎて、どうも胡散臭い。しかも、鷹峯拝領は、時期を調べると大坂夏の陣が終わって、家康が関東に引き上げるその足で、早くも京都でなされている。夏の陣の論功行賞ならまだしも、たかが職人に土地を下付するのを何故そう急いだのか。何か隠された特別な理由があったのか。

 

もう読者諸賢は、お気づきのことでしょう。琳派の始まりとされる鷹峯の芸術村は、そんなにほのぼのとした話ではなく、和子入内により皇室の一員となることを目論んだ徳川家の、次世代の戦略を担う秘密工場だったのです、嫁入り道具一式を製造する、今でいえば特定目的会社SPC)のようなものは無かったか。そう考えた方がすんなりと筋が通って、うまく理解できませんか(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家                 

            

■琳派を生んだのも育てたのも実は徳川家康だ!誰も言わない美術史。その③■

琳派を生んだのも育てたのも実は徳川家康だ!誰も言わない美術史。その③■

 

徳川家康の孫娘、和子(まさこ)が皇室に入内して、着物道楽を極め、尾形光琳の実家の呉服屋である雁金屋に、半年で現代の金額にして2億円もの発注をしたことは、前号に書いたとおりです。この多大な支払いが、天才・光琳を育てる培養土となり、弟の乾山も含め1700年前後の琳派を花咲かせた、と結論付けた訳です。

 

ところで琳派の誕生はいつかと言うと、それに先立つ1615年。今から400年前。ちょうど徳川家康大坂夏の陣で豊臣方を完全に滅ぼした年です。記録によれば、本阿弥光悦が、「辺地に住むことを願い出て、家康より京都の北西部の鷹峯の土地を拝領し」、一族や工人とともに移り住んで芸術村をつくった、のが琳派の始まりとされます。琳派の末裔の人気画家、神坂雪佳の《光悦村図》では、光悦らがお茶や創作を楽しみながら風流人然として暮らしている様子が想像で描かれています。これらの伝聞から、一般には徳川家康は徳政者であり、フィレンツェメディチ家のような芸術のパトロンであったと思いがちです。でもそう思った人はすでに、家康の情報作戦に嵌まっている、と言えるかもしれません。

 

 

もともとこの話って、何か胡散臭くないですか。死ぬ思いで権力を奪取した第一世代は、政敵を駆逐し権力基盤をより強固なものにすることでもう精いっぱいでしょう。それなのに光悦村の話はきれい過ぎて、余裕があり過ぎ。逆にお金のリアリティと人間の欲望が見えてきません。一族で僻地に移り住んで、仕事や収入はあったのかい、と突っ込みたくなります。まさか年金まで家康が払ってくれたわけでもあるまいし。

 

それで、さすがに可笑しいと思ったのか、光悦が法華経信者で、門徒を引き連れて移住したなどと言う珍説を唱える大先生もいます。まさかねえ!現生利益の法華経徒は街中に住んでこその人生。わざわざ隠れて集団生活をする必要などありません。また光悦が家康に嫌われて市中を追い出された、などという臆説もあるようですが、嫌う人間に土地を与えるお人好しな権力者などないでしょう。

 

それでは一体、光悦村は何のために出来たのか。このことは僕の中でずっと疑問としてしこっていました。二条城の建設で住民の立ち退きをさせた補償かとも思って見ましたが、本阿弥家の敷地はそこから外れています。秀吉の北野の大茶会のような人気取り政策、今日でいえば万博のような話題を狙ったものかとも考えましたが、広報イベントとしては地味すぎます。謎は深まるばかりでした。

 

ところが数年前、僕は「新発見 洛外洛中図屏風」(狩野博幸 青幻舎)で、和子入内の豪華絢爛なパレードの絵柄(上に掲げた図版)を見たとたん、光悦村に隠されていた重大な真実がビカッ!と光って輝き出るのを感じたのです。ここから先に書く推論は既に発表したものなので、ニューズレターの古くからの読者は、「ああ、あの話ね」とご記憶があるかもしれない。ただ新しい読者も増えたこともあり、僕としては東福門院=和子)の着物道楽とそれに先立つ和子入内の儀式を紐づけて、琳派発生や興隆の決定的な要因として、皆さまに改めて提示したかった訳です。僕の仮説を補強する光悦村の有力な資料も今回新たに見つけましたので、それも開陳します。まだ誰も言わなかった美術史上の新説、長くなるので衝撃の真実は次回に(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ

 

◆予告 東京での美術講演会 615日(土)、東京駅前の新丸ビル京都大学東京オフィス」にて15時より

開催が確定しました。追って詳しい内容のご案内をメルマガやFACEBOOKで公開させて頂きます。 

 

 

 

 

 

明けましておめでとうございます。  2019年年新春

すがすがしい新年をお迎えのこととお喜び申し上げます。この一年を皆さ

まが健康で幸せに満ちて過すごされますよう、心からお祈り申し上げます。

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■わが家の近く、宝塚の清荒神清澄寺/最後の文人と言われる富岡鉄斎水墨画

人間国宝荒川豊蔵の茶碗のコレクションでも知られる真言宗の古刹です。

 

小生も今年、美術が愛好家にとってより楽しく、ワクワクする知的なエン

ターテインメントになるように、執筆や講演活動を充実させて行きます。

幸いにも近年、自身の絵の見方や西洋美術史の俯瞰の仕方に、確信が深ま

る手ごたえを強く感じます。これらを、判りやすく面白く発表したいと思

っています。その試みの一つとして、ビジネスパースンを対象に、美術や

デザインを通じた感性発想の講座も準備中です。京都大学・東京オフィス

ジャポニスムの講演会はシリーズ化して、次回は615日(土)15

に開催することが確定しました。詳細はあらためてご案内させて頂きます。

どうか今年もよろしくお付き合いください。

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ