■□■□■ 【西洋ヌード画の歴史をたどってみた シリーズ 3の②】 ■□■□■
スペインの宮廷画家として、フェリペ4世の庇護のもと、王族の肖像など傑作を生涯ものしてきた
べラスケスですが、ヌード画で現存している絵は下の画像だけ。「鏡の前のヴィーナス」。バロック
の巨匠の貴重な1点です。彼のもっとも有名な作品、「ラス・メニーナス」(女官たち)ほどには手は
込んでいませんが、やはり鏡を使って、多角的な構成を作り、絵を見るものをして、物語を読み解
かせようとする仕掛けは同じです。
https://www.museodelprado.es/jp//15/ficha-de-obra/obra/4/←ラス・メニーナス(プラド美術館)
●
鏡を持っているのはキューピッド。ですから彼女(ヴィーナス)の子供ということになります。密室遊
戯的なエロスに満ちていますねえ。厳格なカソリックの筈のスペインでよく許されたものだと思いま
すが、「神話なので」と例によって裸婦を描くエクスキューズは一応は出来ています。しかしもしあな
たが、この絵のキューピッドを手か何かで隠してみてみたら、何のことはない、現代の通俗的なヌー
ド画と変わらないことがたちどころにわかるはずです。鏡の顔をわざと凡婦にしてるのも神話をこっ
そり否定したいがためです。
ディエゴ・べラスケス 《鏡の前のヴィーナス》1650年頃 ロンドン ナショナルギャラリー
さて、それではもう一点。今度はロココを代表するブーシェのヌード画です。「水浴のディアーナ」。
ローマ神話の狩りの女神をテーマに、技術的には完璧でみごとです。もし問題があるとすれば、ロ
ココの絵画にまったく思想性がないという事でしょうか。享楽と快美のみに奉仕して、反モラルだと
も言えますが、それは現代の市民的な見方。フランスのルイ15世や寵姫のポンパドゥール夫人に
仕える立場では、それでいいのです。実は僕の中でもこうした頭を使わない絵画を密かに歓迎して
いるフシがありますね。ちなみに美術史は、大きくはルネサンス→バロック→ロココと流れます。
フランソワ・ブーシェ 《水浴のディアナ》1742年 パリ ルーヴル美術館
それではこの絵はどうでしょう。ご存知の方も多いと思いますが、新古典派のアングルの
「横たわるオダリスク」。新古典派と言うのは、まあバロックやロココの退廃を、清純に取
り戻したい運動なんです。ルネサンス以降にギリシャの見直しをもう一度やってるやってい
るようなところがあります。アングルの教科書的に有名な「泉」にしても、ギリシャのヴィ
ーナスの彫刻をそのまま絵画に置き換えたようで、多分にアカデミズム的。ただ下の絵は
官能表現がよくできています。見どころはターバンをはじめとする異国趣味もさることなが
ら、女性のポーズでしょう。ベラスケスにならって背中に多くを語らせているが、顔は鏡を
使わずみずから振りむいている。アングル独自の発明です。浮世絵なら見返り美人ですかね。
ドミニク・アングル 《グランド・オダリスク》(横たわるオダリスク) 1814年パリ ルーヴル美術館
こうしてヌード史を見ると、ボッティチェルリが世に生み出したヌード立像。それをジョル
ジョーネが眠ったままを草原において寝像とし、やがて寝像はティツィアーノによって寝室
に運ばれて目を醒まし、見るものを誘うまでに成長。実にベッドインするまでに3人ものル
ネサンス天才の、三段跳びのようなジャイアント・ステップを要しました。そう思うとのち
のロココも新古典も結局、このルネサンスを越えられず、周辺をうろうろしていたのではな
いかと僕は感じます。
絵画史が本当にルネサンスを乗り越えるのは、近代のマネを待ってのことかと思います。次
回、マネがどれほどドラスティックに新しかったか、いかにベラスケスを学んだか、彼のヌ
ード画「草上の昼食」を取り上げながら、説明してみましょう(この項つづく)。
■ニューズレター配信 ものがたり創造研究所 美術評論家 岩佐 倫太郎 ri@monogatari-lab.jp
※画像はパブリックドメインに属するものを使用しています。このメルマガは転送フリーです。