■□■□■ 【西洋ヌード画の歴史をたどってみた シリーズ 3の③“】 ■□■□■
パリの豊かなブルジョワ家庭に生まれたマネは恵まれた環境の中で、ルーブルでの模写やスぺ
イン・イタリア旅行を行ない先人たちの技法を吸収していきます。中でもスペインのベラスケスや
ゴヤからは多くの影響を受けています。
画像はゴヤの「裸のマハ」。いかにもスペイン的なあだっぽい麗人ですが、ヌード画で恥毛が描か
れた最初とされています。この絵は「着衣のマハ」とセット。もし2点を1枚にまとめられたら・・・。
マネの「草上の昼食」の閃きはここから生まれたのではないか、と想像してみました。
フランシスコ・デ・ゴヤ 《裸のマハ》 1797年-1800年頃 マドリッド プラド美術館
ところで、マネがスペイン絵画以上に影響を受けたのは日本の浮世絵だったと僕は思っています。
異国趣味や装飾性に惹かれたのは当然として、それ以上に東洋の島国の絵が思想的に蠱惑的
だったのではないか。と言うのは、ルネサンスは神から人が自立したとはいえ、絵画の世界では
やはりまだ、神の視座というか統一的な空間表現を要求されるわけです。大天才のダ・ヴィンチ
さえ、スフマート(ぼかし)法や空気遠近法(遠くの山は青くぼける)を発明して、2次元の画布に
3次元を忠実に再生しようと腐心しているのですから。ところが、浮世絵はそんな絶対的空間など
ハナから意識に無く、それこそ自由に主観の赴くまま、遠近や時間や物語を紙に平面的に表現し
ていたのでした。
「へえ!こんなんでいいの!」。初めて浮世絵の刷り物をみたクールベやマネは、虚を突かれて
そう思ったに違いない。次いで、今までおかしいなと思いつつも墨守していた3次元表現の呪縛
がブチン!と切れた。もう、神の視点は要らない。そう目が覚めて見てみると、浮世絵はマネたち
がやりたかった事をサッサと先取りしているではないか。これって楽園だよね──。まあ、そんな
風にして異国の絵を驚異とともに受容したと思うんですね。
その上、浮世絵は強烈な毒のように甘美な魅力を隠し持っていた。春画です。いわゆる男女(で
ない場合もありますが)の交合図。モロにリアルにかつ巨大に、性器を誇張してまで描かれたポル
ノグラフィ。キリスト教文化の残滓を引きずってきたのがアホらしくなるくらいの、人間の解放と陽
性な肯定。記録には無いが、彼らも一緒に日本からもたらされた春画を見たのは必定。参った!
となって、同時に自分たちのやろうとしていることに自信も得た。クールベなど春画のそれこそ赤
裸々な写実精神にインスパイアされて、「世界の根源」との題で女性陰部をずばり描いています。
下のマネの「エミール・ゾラの肖像」なども、どこか微熱を帯びた思い入れがたっぷり。黒のうまい
色使いに相撲とり、屏風など配し、マネの思想の標本箱のよう。僕は大変評価しています。
エデゥアール・マネ ≪ エミール・ゾラの肖像≫ 1867-1868年 油彩 パリ オルセー美術館
マネによって、絵は統一的な意味から開放され、画家は部品を色と形で提供するが解釈の多くを
観客にゆだね、絵の思想そのものをテーマとして絵を描く、ということが始まります。まるで抽象
絵画の解説をしているようですが、それ以前に既にセザンヌやモネらも同様のことをしています。
僕がほんの出来心で迷い込んだルネサンスのヌードの小径。それが現代につながるブールヴァ
ール(大通り)であったとは!図らずも、ボッティチェルリに始まる神話のヌードの歴史が、およそ
400年の後、マネによって解体され書き換えられて、近代が一気に開花するという絵画史の事件
をヌードを通して目撃したわけです。さあ、これでヌード画の話は終わります(この項、完)。
■ニューズレター配信 ものがたり創造研究所 美術評論家 岩佐 倫太郎