去る7月8日、京都大学の時計台で行った森耕治先生とのリレー対談の要旨は、
一言でいえば日本の浮世絵がジャポニスムを生み、印象派の発生を促した、と言
うことだ。その事実を北斎などの浮世絵とモネ、セザンヌなどの絵で実証しつつ交
互に語らせて頂いた。実にアンドレ・マルローも言うように、「印象派の人々が浮世
絵を発見したのでは無い。浮世絵に心酔した青年たちの間から、印象派が生ま
れた」のである。これは400年続いたルネサンスの美の様式が潰えると言う、
西洋美術史上の一大事件だった。
ところで、ジャポニスムを通じて印
象派画家たちが生まれる中で、僕
には気になる二人の男が居る。一
パリ・コミューン(1871)に参加して
逮捕され、ノルマンディの刑務所に
入牢した後、モンマルトルで画材屋
らまだ売れない貧しい画家たちを支
援し、彼らが絵の具の代金が払えな
いときは、作品で受けとったのは有
名な話である。まあ、任侠心の篤い
「義人」ともいうべき存在なのだろう。
リに出て来て翌年には、作風を別人
のごとく明るく一変させるが、それは
浮世絵に出会って心酔しただけでなく、タンギー爺さんの店で印象派の面々
たちに出会えたことも大きく、またタンギー爺さんの援助も手厚くあってのこと
では無かったか。モデルの慈顔の描き方を見ると、精神的に孤立しがちなゴッホに
とって信頼できる特別な存在だったことを表している。ゴッホは浮世絵に触発され
自らの画風をここで確立し、翌年勇躍、日本的な光の桃源境を求めてアルルへ出
かける。惜しいかな精神を病んで例の耳切り事件を起こし、終にはパリの北郊で
自死することになるのだが。彼の命日はちょうど昨日の7月29日。葬儀の折は
ダンギ―爺さんも参列するが、自身も4年後には没し、娘さんによってこの絵はロ
ダンに売られ、それゆえロダン美術館のコレクションとなって現在に至る。
さてもう一人は、日本人の林忠正(1853-1906)である。
講演会でも触れたが、1878年のパリ万博開催を機に東
大を中退してフランスに渡り通訳として働く。その後、現
地で美術店を開いて日本美術の紹介と普及に務めた。
森先生の話にもあったように、モネの浮世絵コレクション
231点の多くは、林から得た。またドガ、マネらとも親しく
交流し、シスレーが死んだときは遺族への経済支援もし
学力と日本美術の知識に負う所が大きかった筈だ。
林忠正 1853-1906 ●
1900年のパリ万博では、林忠正は日本出展の事務官長となる。彼は平安時代
以降の絵画、仏像、工芸など日本の国宝級の美術品を並べて展示紹介を試み、
大評判をとり、仏政府からはレジオン・ドヌール3等賞などを授与される。また法
律を学びにパリに留学していた黒田清輝を画家の道に転身させたのも特筆もの
だろう。のち黒田は有名な傑作、《湖畔》(1903東京国立博物館)を描き、近代
日本洋画の父と呼ばれるようになったのだから。林忠正については今後、業績
の再評価がもっと進むべきだと、強く思われる(ジャポニスムの項、完)。
■岩佐 倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ
7月8日の講演料の一部を、森耕治先生と連名で「京都大学基金」
のうち、ips細胞の山中伸弥先生の研究を指定して寄付させて頂き
ました。
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