日本の抽象美術は、「具体」の白髪一雄や元永定正が人気急上昇だが、こんな先人もいた。
■□■ 生誕110年 村井正誠展 ひとの居る場所 【和歌山県立近代美術館】 ■□■
年が明けてまもなく、和歌山市へ出かけました。もう何十年ぶりかもしれなかった。
目的は表題の画家、「村井正誠(むらいまさのり)展」を見るためです。
美術館の立地はご覧のように堂々たるお城のそば。設計は今は亡き黒川
紀章先生。お城に負けてはならじと髭剃りのむき出しの刃のような軒の
連なりが道路(堀のあと?)を挟んで対峙する、力のこもった建築です。
和歌山城。石垣の見事さはさすが。天守閣は戦災後に復元したもの。
さて、村井は和歌山県新宮市に育った医者の息子で、早くも1928年に
パリに留学して当時のヨーロッパ美術の潮流に触れ、日本にその成果を
持ち帰っただけでなく、後進の教育にも務めた抽象絵画の先駆者です。
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ふつう抽象画と言うと、多くの人は戦後の具体美術協会(1954~1972)
などが始まりのように思っているかもしれません。たとえばアクション
ペインティングで知られる白髪一雄やユーモアある浮遊感のタッチで知
知られる元永定正です。特に白髪は天井から吊るしたロープにつかまり、
足の裏で絵を描くという破天荒な方法で世間に衝撃を与え、近年はとみ
に国際的評価を上げている作家です。スターバックスのシュルツ会長が
作品を自分のオフィスに飾っていることやサザビーパリのオークション
で最近5億円以上の値がついたことでも話題になりました。
白髪一雄 《作品Ⅱ》1958 元永定正 《ヘランヘラン》1975 いずれも兵庫県立美術館蔵
平成20 年度 コレクション展より
それはさておき、村井正誠がパリに出たのは第1次世界大戦が終わって10年ほど
経った、年齢的にはまだ20歳代前半でした。その若き眼が見た当時のパリの画壇
はというと、モネが数年前亡くなり、ピカソはキュビスムを経てシュールレアリスムに
進み、藤田嗣治などエコール・ド・パリが全盛、そして抽象画が勃興した時代でした。
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その中で、村井が一番影響を受けたのはマティスではなかったかと、今回の展覧会
の100点にのぼる作品を見て思います。マティスの持つ安穏で官能的な世界観や、
浮世絵に影響された遠近感の無い平面的な描き方、濃密な色使いなどがことの他
しっくり来たんではないか。彼は始め殆どマティスふうなタッチで絵を描いています。
村井正誠《パンチュール3》1934 《自画像(太い線)》 1974 いずれも和歌山県立近代美術館蔵
生涯マティスに私淑した人なんでしょう。それ故、マティスが晩年の「切り絵」で抽象
に移行したのに呼応して、戦後、抽象絵画へ進んだ時も迷いは無かったはずです。
ほかに画家で影響を受けたのは、知的で温和で構成主義的なモンドリアンでしょう。
逆にカンディンスキーなどは、くどくて苦手だったかもしれません。
村井正誠 《聚落》 1941年 これなら抽象画は苦手と言う人も理解できる? 和歌山県立近代美術館蔵
遥かな歴史を振り返れば、人類が絵を描いた最古の記録は4万年も前の洞窟画。
有名なアルタミラの洞窟の絵なども何と1万5千年も昔のこと。それ以来ずっと人
類が描き続けてきたのは、具象画です。なので21世紀初頭の抽象画の発明は、
人類がロケットで月面に降り立ったくらい劇的な、20世紀の大事件といえます。
日本の抽象画がいまや「具体」などのように、国際的に第一級の高い評価を享受
するのも、村井正誠や、やはり同時代パリにいた山口長男(たけお)、シベリア抑
留から帰ったオノサトトシノブらの先駆的活動があってのことでしょう。山口長男に
ついてはまた、機会を見つけ改めて書きます。会期は2016年2月14日(日)まで。
■ニューズレター配信 美術評論家 岩佐 倫太郎
近著 「東京の名画散歩」――印象派と琳派が分かれば絵画が分かる(舵社)